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東海地方の大地震と大津波の「小川延命地蔵尊」
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小川延命地蔵尊
【閲覧数】1,248
2011年11月26日 16:31
シンちゃん
野賀正伝庵に小川延命地蔵尊と呼ばれ、海上安全、河川氾濫の水難よけ、子育て、病気平癒など何でもかなえてくれる霊験あらたかなお地蔵様がある。往時は、参詣者が非常に多く、東は相良、西は浜松磐田からも見えて、1月24目の縁日には、板店もたくさん出るなど大変なにぎわいであった。横須賀の芸者衆の奉納された直径1メートルもある大じょうちんがたくさん下がっていたことも、記憶に新しいところである。
このお地蔵様は、何時頃どうしてこのお寺に迎えられたものであろうか。
焼津市小川に海蔵寺というお寺かおる。この海蔵寺は、6百年ほど前は「安養寺」という名まえであったが、次のようなことがあって、名まえを海藻寺と改めた。
明応9年(1500年)奉のことであった。焼津の西、「鰯が島」の沖の海が毎晩のように光を放って金色に輝いている。
「なんと不思議なことじゃ。」
これを見た「鰯が島」の人々は、こういって毎晩海を眺めておそれていた。さて、古平という漁師が、ある夜、いわしの網をひいていると、突然何か重いものがかかった。ひきあげてみると、人間と同じ位の大きな木彫りのお地蔵様であった。ゆったりとしたお顔の表情から、胸にかけての縁、全体がどっしりとして有難いご木尊だということが一目でわかった。その年の2年前、明応7年に東海地方に大地震と大津波があったのでこのお地蔵様は、その時海に流されたものにちがいないと村人たちはうわさしあった。
「毎晩海が光っていたのはこれだったのだ。」古平は皆と相談して、さっそくお堂を建てておまつりをした。 ところが、或る夜、みんな全く同じ夢を見た。
一一この浦の西にある天台宗の安養寺に、わたしを移してまつるように。そうすれば、いつまでもおまえたちを守りましょう。願いごともかなえましょう。一一 夢の中のお地蔵
様はこう告げた。
「これはありかたいことだ。」
さっそく、みんなは、そのお地蔵様を小川の安養寺まで運んでおまつりした。この時から、海からのお地蔵様をまつった寺だということで、名前が高蔵寺となった。時に明応9年6月24日のことであった。
さて、このお地蔵様は夢のお告げのとおり、みんなの願いごとをかなえ、災難から多くの
人々を守った。今も「川よけ地蔵」「子育て地蔵」「延命地蔵」などたくさんの呼び名がある。難破した船の漁師を助け、大井川や安部川の氾濫から人々を守り、子どもをすこやかに育てるなど霊験あらたかであった。
本堂の正面の板子には、安政6年勢州沖で助けられた漁師天野甚助さんの感謝の気持ちがこめられた和歌が書かれている。
たぐいなやおらいそ波によなよなと ひかりをさしてうかぶぼさつは
小泉八雲は、この話を開いて「漂流」という小説を書いたと言われる。
徳川家康の第11子、徳川頼宜は、元和元年駿遠合せて50万石を領して駿府城主となり、第7代横須賀城主を兼ねた。頼宣は深く小川延命地蔵を尊崇せられた。紀州へ移封される時には、ご自身の念持仏を金蒔絵葵紋の立派な厨子に納めて残して行かれた程であった。
また、横須賀城主西尾吉成も、この小川延命地蔵尊に厚く帰依された。今、本堂右側に掲げられている絵馬は吉威か寄進せられたものである。縦80センチ、横1 2 0センチのこの絵馬は、画家狩野元俊が、城主の愛馬「黒墨(くろずみ)」を描いたものだが、前足で地をけっている姿は、いまにも絵からぬけ出しそうな力作である。この絵馬には、もともとたづなは描かれていなかったといわれる。
画家元俊は、当時79才という高音で、精魂を傾けつくして描いたため、中心の黒馬だけを完成し、たづなを書き残して死んでしまった。吉成はさっそくこのみごとな絵馬を、米5斗とれる土地といっしょに海藻寺に寄進した。では、いったい何時頃から馬にたづながついたか、こんな話が伝わっている。
大地震があったある年(宝永4年)のこと、寺の小僧さんが、絵馬のなかの馬がいないことに気付いて寺じゆう大騒動となった。在の人々は、先を争って参詣するようになった。
そこで、明治25年野賀の人々は、新井、中新井の人達とも相談して、小川延命地蔵大菩薩を野賀の地に勧進することになった。
当時の住職国枝螢州(えいしゆう)師は、寺世話人大石原蔵、大石別入、大石清古、大石惣平、大石藤平、大石幸平等村の主だった首途を伴って、海藻寺に出向いて、お地蔵様をお迎えしたのである。今もお地蔵様をお迎えした時の輿が残っている。明治から大正にかけては隆盛を極め、海の安全と豊漁を祈る海岸の人たちによって供養塔を抜く行事が行われたり、句会が催されたりした。明治30年には、早苗庵宗匠選、判貴姉碩と記した百余句が立派な順に納められ奉納されている。
奉納されている人々の住所が、野賀、新井、中新井、浜、藤塚、岡原、横須賀、石津、三輪、松原、山崎、中村、酉之谷、岩滑、大坂、上平川、新野、相良など広範囲にわたっているのを見ても、当時の様子がしのばれる。
その後次第に衰退して、現在は1月24目に、村中総出のお地蔵講が催されるのみとなった。
在の人々は、先を争って参詣するようになった。
野賀小川延命地蔵大菩薩御詠歌というものがあるが、海蔵寺には天野甚助が板子に書いて奉納した一番の御詠歌はあるが、その他のものはないとのことである。二番から十六番までは当地の誰かが作ったものであろう。
小川延命地蔵尊大菩薩御詠歌
壱番 たぐいなやおらいそ波もよなよなと ひかりをさしてうかぶぼさつは
弐番 わが思う心のうちはあさくとも ぼさつのちかいみかきおお海
参番 子そだてのちかいも深き地蔵尊 まいらる人のこころやすけれ
四番 み手に持つみたまの光かがやきて 人の心を照らしたまわん
五番 いつ来ても清き小川の流れにて こころのあかをそそぐうれしき
六番 おりおりと人の心はかわるらん 小川の水はいつもかわらじ
七番 これまでのよごれしあかの心をば 小川の水であらい清めん
爪音 ふかくさの道ふみわけて来てみれば 地蔵菩薩のちかいとうとき
九番 たずねきてひたすらだのめ地蔵そん この子あの子のそだつ身のため
十番 来てみれば小川の水も静かにて 心もすみてうかぶ月形
十一番 ちちははの恵みもふかき子そだての 地蔵菩薩のちかいたのもし
十二番 あらとうとたのめ菩薩のりやくには よろずの願いをほどこしぞする
十三番 たずねくるこころぞ情き小川なる ふかきちかいをうるぞうれしき
十四番 人ごとに誠のこころいでしなば ぼさつの慈悲は人をわかたず
十五番 心だにまことのみちにいたるなら いのらずとても加護したまわん
十六番 きのうまでつくりしつみも今日よりは 小川の水にうかべ流さん
著者 故 土屋茂作 先生
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◎野賀 影石山 (えいしゃくざん) 正伝庵 (せいでんあん) (臨済宗妙心寺派)
本尊 正観世音菩薩
貞永寺の南溟和尚 (なんみょうおしょう) を開山として観音堂が設けられ、その後中絶したのを延宝五年(1677) に貞永寺の金龍が再興され、元禄年中より正伝庵と呼ばれる。
原典 <掛川市の神社・寺院めぐり> かけがわ街づくり株式会社 発行
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