録画した歴史番組を見ていたところ、豊臣秀吉の側室は生涯126人と言っていました。徳川家康もそれなりに側室が大勢いたのは確かですが、選ぶ基準が双方で少し異なるようです。 家康の目的は世継ぎ出産が最優先だったため、再婚者、出産経験者を選んだのだそうです。秀吉も必然的な名目?はお世継ぎですが、自分が農民の出身で劣等感を持っていたため、お相手は憧れの名家の娘それも若さと容姿で選んでいたそうです。結果的に世継ぎとして育ったのは淀殿の息子秀頼公だけでしたが、淀殿の不倫関係が噂されました。秀吉は正室である高台院を初めとして、他の側室との間にも、子宝に恵まれませんでした。<掛川城の情報>http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/d/diary_view.p…=&l=30