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2019年03月03日(日) 

20190303

 とてもとても久し振りの報徳社常会に参加させていただいた。昨年4月から町内・自治会役員を引受けることになって日曜日の特に午前中はいろいろ行事や会合が入ることが多く、毎月第1日曜日の常会に参加できないままでした。報徳社榛村前社長がまだ存命で常会の冒頭でお茶の話を聞いて以来の参加でした。この日進行役が昨年3月に亡くなられたと案内していたのでもう1年以上まえの事だったのでしょう。

 報徳社社長を榛村さんから引き継いだのは鷲山先生でした。報徳社で拝見するのは初めてでしたので随分長く常会に出ていないことになります。しかし定年後に掛川に戻った私は、いろいろなご縁で鷲山さんには何度かお目にかかっています。ご自宅で主宰されるイベントや土井酒造店(清酒「開運」蔵元)での新酒を楽しむ会にも参加していましたので、先生自体はよく存じ上げていました。地元のJR駅が建替えをするという際に、どこにでもある駅舎にするのではなくこれまでの雰囲気を残す木造駅舎にする運動の先頭に立って来られた方でもあるし、学芸大の学長でもあった地元の名士・有名人でもあります。良い方が社長の役に就かれたと思った事でした。と今更のようなブログになってしまいました。

 見出し画像は3月常会冒頭で「松本亀次郎と周恩来」について説明をされる大日本報徳社鷲山社長です。この日午後からは掛川・大東図書館に松本亀次郎・周恩来の像が完成する式典があるというこの日の社長挨拶でした。

 ブログをご覧になっている皆さんの中には、田中角栄と日中国交回復を実現した周恩来首相はともかく、松本亀次郎とは誰なのか、という方もおられるでしょう。私も定年になって地元に帰るまではこの名前を知りませんでした。魯迅や周恩来など日本に関わりの深い中国留学生たち来日した際に日本で親身になって世話をしたといいます。今でこそ当たり前ですが戦前中国に対する日本の態度は横柄だったろうと想像できます。そんな中で教育者として偏見することなく彼らに対応したとの事でした。静岡県掛川市の大東地区土方出身の方で特に中国留学生を通じて日中友好に貢献された方だそうです。鷲山社長の自宅の近くでもあります。この松本亀次郎が日本で脚光を浴びたのは、中国から「松本亀次郎という先生」として称賛の声が上がったのがきっかけだったといいます。

 さて社長あいさつの後、この日の常会講演は露木順一氏でした。二宮尊徳の生家に程近い神奈川県開成町出身。NHK報道記者から元開成町町長、現在は大学教授。こちらが露木さんのHP・ブログ

 ああでもないこうでもないの議論はいいから、まず「お前やってみろ!」の実践のススメこそが二宮尊徳の後世への遺言。「ボーッと生きていたら如何!」という話をするために掛川にやって来た云う。掛川や静岡のお茶がここでしか飲めない・作れないお茶を見出して提案していったらどうかと、報徳社への提案までしてくれた。露木さんの面白い話は次回の更新時に掲載させていただく。下はまず実行!と意気軒高、露木元町長。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2019/03/03 13:00
2019年01月27日(日) 

 今日も日曜日だ。

 先日NHKラジオで1時間の講演番組を聞いた。元東レの役員をしていた佐々木常夫という方だ。私も退職して6年になるが、まだこのようにして働いている人がいるのだなあと懐かしくも感じた。
 自閉症の息子さんを持ち、完璧を目指すうつ病と肝臓病を抱える奥さんという家庭を支え、会社での仕事も果敢に取り組んできた方だ。家庭と仕事、タイムマネジメントなどから現在は経営についての様々なアドバイスをしているようだ。
 1時間という講演時間の中で内容がとても濃いと云うか、様々な問題や考え方、対処法など本当に詰め込まれた話だ。今ではこういうバイタリティはないなあと思いつつ、昔を思い出しつつ聞かせてもらった。

 彼の家庭の問題に比べたら、自分は何と有難い家族に恵まれた事かと感謝する。多少の問題はあっても仕事に支障をきたすような家庭問題は無かった。彼は問題だらけというかどうしてそこまでやり切れたのかという疑問迄出てきてしまう。これでもかこれでもかと問題だらけだったように聞こえる。しかし家族を見捨てることなく、仕事をやり遂げる。まず普通に考えて時間がない。時間を作ると云うかやるべき仕事をさっさと完璧に済ませて定時退社する。そこからは家族の時間、単身赴任の時には家族の元に戻る。家族への対応をする。その時間への考え方に驚かされる。時間は有限。作らないと時間などできない。無駄な会議はしない、どうしても参加しなくてはいけない会議は参加しても自分の仕事をする。いわゆる内職参加だ。内容は後で議事録を読んだりメンバーに聞けば済むという。会社には何を勝手なことをするメンバーかという声もあるだろうが家族の問題を抱えているという事から納得させられる。家族の問題があったからこういう取り組み方ができた、せざるを得なかったとも思う。問題の多い家族は考え方によっては有り難い存在なわけだ。自分がその立場なら何ができると自省もするが。
 彼は論語が好きなようで、所々に論語の話が出てくる。説明はシンプルに、そして充実した内容を含むという思いもここからきているかもしれない。論語はほんの数行、場合によっては数文字で伝えるべき内容を含んでいる。論語を様々な人が解説しているだろうが、彼の視点はまたビジネス的・会社的で面白い。妙に納得する。

 今回の講演で少し佐々木常夫という人に興味を覚えた。著書もあるようなのでまた読んでみたい。

オフィシャルHPはこちら 

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2019/01/27 06:00
2019年01月24日(木) 

20190123

 今や働き方改革とかで、定年65歳が当たり前という時代になろうとしている。この定年という60~65歳という時代について考えてみた。見出し画像は最近読み始めた、朝日新聞「55プラス」取材班による”55歳からの「一生モノ」入門”(講談社)という本です。

■平均寿命 男性81歳、女性87歳

 まあ人生90年時代だという事ですね。90年というのは良くも悪くも「長い」と云える。60歳頃というのは、その2/3を終えた時代となる。30年区切りの2つを終え、最後の30年への入口にある。皆さんはこれまでの60年はどうだったのでしょうか?偶然ではありますが、今年、元号が変わろうとしています。それも30年続いた平成が終わると云うのです。

 昭和1桁生まれの人達がちょうど90歳前後になる。昭和30年前後生まれの方々が60歳前後にあたります。そして平成元年頃に生まれた人たちが最初の30年を終えた時期となります。ご存知のように日本社会はかつて経験したことのない急激な高齢社会にまっしぐらであり、その裏返しで少子化も進行しています。

 私自身は65歳ですので、親世代が昭和一桁生まれ、子供たちが昭和最終時期生まれです。ですので大雑把に云えば、昭和の後半と平成を生きてきた事になります。それぞれどんな30年だったのでしょうか。ちょうどこの話は平成最後の年賀状になるという事で2つの30年を振り返った内容の年賀状にしました。

■昭和30年以降の”昭和後半期”

 いわゆる高度成長の時代でした。東京オリンピックを控え、東名高速道路・東海道新幹線が開通するまで、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が爆発的に普及して来た時代が子供時代でした。世界的には東西冷戦時代であり、国内もいわゆる55年体制という時期でした。白・黒がはっきりさせられていた時代です。強いカリスマリーダーの下で一丸となるようなイメージでした。1970年大阪万博の頃から(何かちょっと違うんじゃないか)という白黒だけではないモノの見方が広がってきたように思います。

■平成の30年間

 丁度私は社会人となり、数字とスピードを求められ、期待に応えようと走り回った時期でした。当初はバブルの時代だったですね。とにかく経費は十分つかってでも目標を達成することテーマでした。単に目標達成だけではなく、更にスピード感をいう時代でした。国内はハチャメチャの時代でしたが、世界的には大きな変化がありました。冷戦の終結、ベルリンの壁やソ連が崩壊しました。これまでの白黒だけではなく、グレイもオレンジもグリーンもあるような多様性とグローバルの時代となりました。境界線がはっきりしない時代であり、強いリーダではなく次々とリーダーが入れ替る時代です。混迷と混乱の時代でもあると云えます。

■今後の30年

 私達が人生を締めくくる3つ目の30年間が始まります。どんな時代になるのでしょうか。そして私達はどう生きようとするのでしょうか。ボーっと暮らしても30年です。なにか前向きに積極的に暮らしたいですね。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2019/01/24 06:00
2018年12月06日(木) 

20181203

 静岡では12月2日は地域防災訓練でした。わが町内でも自主防災会の防災訓練が実施された。

 地震が発生。地元で震度5弱以上であった時に自主防災会(町内会が組織する防災組織)では対策本部を公民館に立ち上げることになっている。役員を中心に町内にある近隣組織(”組”)の防災委員が組内世帯の状況を確認して対策本部に参集し、組内の状況や支援の要不要を本部に報告する。

 大きな地震となれば広範囲にわたる同時被災となるため、公的機関(行政・消防・警察など)の支援は受けられないという前提で地域住民の協力で乗り切らなくてはいけない。その要が自主防災会で、拠点が公民館になる。

 各”組”の報告を受けた本部では、地域内の状況を集約・確認して、地震直後の限られた人員・資材をどこにどのくらい投入すべきかを判断し実行する。情報班・消火班・救護班・避難誘導班・給食給水班など機能別の班編成で、防災委員たちは防災会長の指示でそれぞれの活動を行う。

 というような段取りで進めることになっているのですが、当然いくつかの問題点があります。

 まず防災委員が予定通りに集まるれるかどうか。発災が平日昼では多くの委員は仕事で家を空けている場合が多かったり、地震そのものが震度7などと大きな場合には委員自身が在宅していても集合できない場合が高い確率で考えられる。

 幸いにして防災委員が無事に本部に集まったとしても、実は委員は1年交替の素人集団です。春4月に始めて委員になった人たちが大半です。どこの町内会も同じような仕組みで動いているのでしょう。ただしそれでいいのだろうかという疑問がいつも付きまといます。

 しかし内容はともかく、訓練にたくさんの地元の方々が参加されるのは素晴らしい事でしょう。そこに感謝しつつ、万一の大地震に備えて皆で生き残る術を工夫し実行していかなくてはと思うのです。

 まだまだブツブツが続きます。

防災訓練のスナップ画像がありますのでUPさせて頂きます。下の画像は訓練開始の際に整列した参加者。250名以上が参加しました。参加者は情報班・消火班・避難誘導班・救護班・給食給水班にわかれてそれぞれの係別の訓練を行いました。

 下は給食給水班の訓練風景。台所で10名余りで250食のおにぎり弁当や五目御飯の弁当を炊き出しいたしました。皆さんアルファ米保存食の炊き出しは初めての方ばかりでしたが協力して時刻までに予定通りの炊き出しを済ませる事ができました。

いずれも12月2日の訓練風景からでした。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2018/12/06 06:00
2018年11月28日(水) 

20181127

 私が郊外に引越しした後について続きを

 町内は世帯数が1,000世帯以上になる大所帯です。町内には金融機関や各種商業施設、医療施設なども増えていわゆる新興住宅地です。集合住宅も増えたり、田畑にも住宅が新築され住民も増えている地区です。会長(当地では”区長”といいます)一人では町内全てをフォロー出来ないために3人の副区長、更にエリアを5ブロックに分けそれぞれを担当するブロック長5人で役員を構成している状態です。身近な存在では”組”という組織があります。ご近所の10軒ほどがグループになり、本当に身近な近所付き合いをしています。

 私の”組”は現在14軒で構成されています。数年前、我が家のように新築されて世帯数が増えたりすることもあるのですが、ずっと以前からこの地に住まいしているお宅もあります。中には3世帯同居のお宅もあれば、高齢ご夫婦だけの世帯もあり、様々です。14軒で1年交替で組長役を担当するのですが、移転後3年目に組長役が我が家に回ってきました。まあ順番の当番だという事で1年間させてもらいました。毎月14軒から組費を集金、そのうちから区費を送金。あとは回覧文書の管理や市広報・町内訃報の配布、2カ月に1回の組長会への参加程度です。組長を間もなく任期終了するという時期に、翌年は当組から区役員のブロック長を選出する順番だという話がきたのです。以前から長く住まわれている皆さんにそれぞれ相談したのですがすんなり引き受けてくれる方がいません。今の活動(野菜作り・防災活動・音訳ボランティアその他)が制約を受けるという事から随分固辞しました。しかし受け手がないということで、致し方なく転入してまだ間もない新住民が町内か役員を引受けることとなりました。

 本年(2018年)春から2年の任期です。前日のように会長の手足となり担当エリアの組長をフォローしながら区役員としての対外行事や町内会行事を行ったり、参加したりします。フォローする組・組長は14組・14名で、世帯数で140世帯ほどとなります。

 実際やってみてどうだったのでしょうか。そのあたりの状況はまた次回(今日も日曜日③)に続きます。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2018/11/28 06:00
2018年11月27日(火) 

20181118

 私は定年で退社したのが2013年12月。高校時代までは出身地の静岡・掛川で暮らしました。大学卒業後、食品会社に就職。勤務地は新潟・東京・京都・金沢・名古屋・静岡と転々でした。退職後は地元に戻って来ました。

 定年後、地元で何をするかについてはいくつかのイメージがありました。結局その中の一つ、野菜作りを始めました。農林大学校という教育施設で1年間の農業研修を受けた後、畑を借受け始めました。野菜作りを始めてからのブログはこちら。このブログは2014年から始めて2018年11月現在4年半になりますが、ほぼ毎日更新を続けており、私の畑作業の記録にもなっています。現在累計訪問者数は15万人越えとなりました。

 一方、出身地へ戻って以降は何か地元の役に立たせてもらいたいという気持ちから、地元のNPOが主宰する「出会い塾(現在は名称変更して”掛川塾”)」に参加しました。定年後に地元で様々な経験を生かして活躍する人材をと、地元の歴史などを学びながら様々な団体、行政の実情や問題点などを講演やプレゼンで聞く一種の地元勉強会です。ここで地元の福祉(高齢者・児童)で活躍する様々なボランティアを訪問見学する機会がありました。当初のきっかけも”地元で役に立ちたい”だったこともあり、視覚障がい者向けの音訳ボランティア「サークル声」を知り参加する事にしました。毎月行政が発行する広報「広報かけがわ」を読み上げ、CDに録音して、目が不自由で広報を読むことができない方々に送付します。サークル声自体はすでに40年以上(私が高校生の頃から)継続して活動実績があるグループです。ここに参加してもう2年半になります。サークル声のブログはこちら

 またご近所とのつながりも大切にしています。当初は市内のマンションに暮らしていました。会社勤務もあり最寄り駅に近い物件でした。住宅40軒ほどと店舗を併せた複合マンションでした。現役時代も含め数年間マンション管理組合の理事長もしました。任期中に管理業者の交替や大規模修繕工事を行いました。その際、住民の不安の1つに地震など大規模災害への対応でした。それへの対応が必要だったこともあり、防災活動や避難所運営などにも関心を持ちました。行政の防災関係者ともやり取りをして市の防災リーダー講習を受講、上級リーダーまで終了しました。

 野菜作りを本格化させるなかで街中のマンション住まいはいろいろあります。マンションは息子に譲り、夫婦で80坪の畑を併設する自宅を郊外に建てて引越しをしてしまいました。この後、引っ越し先の町内会でのドタバタがあります。長くなってしまったので後半はまた次回に。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2018/11/27 11:00
2018年11月12日(月) 

20181112

 そもそもの出発点「出会い塾(その後”掛川塾”に名称変更)」の進行役スタッフAさんより、連絡あり。「随分久し振りですね」から始まり、HPを立ち上げるにあたりこのブログをリンクしたい」という話でした。もう1年以上ブログ更新していないことを説明。しかしOBがどんな動き方をしているのかを連携して閲覧者数を伸ばして行きたい。そして新メンバーを獲得したいという少しでも閲覧を増やし、メンバーを増やしたいという展望があるようだ。掛川塾のHPはこちら

 このブログを立ち上げたのは、出会い塾のメンバーでグループを作ったからなのです。定年後はハイキングではちょっと物足りない、花を咲かせるなどガラではない、そんなグループに入れなかった数名が最大公約数を1つ掲げてサークルを作る、・・・・。なかなか難しい事です。出会い塾ではメンバーで同じような趣味を持つメンバー同士でグループを立ち上げるように進めていきました。今にして思えば、やりたいことを割とはっきり持っている人が、少ない人数集まってグループを立ち上げることは大変難しい、と感じました。

 しばらくは各人毎で毎月関心のある物事を発表し合うという話をしてきましたが、2周目・3周目になるとネタ切れになります。仲間同士の会合は空中分解してしまいました。

 一方で私自身は、出会い塾で出逢ったグループ「サークル声」の活動に関心をもちました。視覚障がいを持つ方たち向けに行政の広報資料や利用者要望による図書を”音訳”するボランティアです。字を読むことができな方のために文字を読んでCDに録音して届けるのが”音訳”です。定期的な具体的活動は毎月、行政(市)が発行する「広報かけがわ」の音訳です。サークル声はすでに40年以上の実績があります。そこに定年で地元に戻ったおじさんが参加し始めたということです。そのきっかけは「出会い塾」で紹介されていたことです。この活動も毎月ですが間もなく2年になります。

 そしてこの春から忙しくさせてもらっているのは町内会役員です。1,000世帯以上の大きな町内で問題・課題は多いのですが、これもなかなか面白い。随分地元での知り合いが増えました。当初は固辞していたのですが、内側に入ってしまうと、様々な行事・イベントを行ってきました。人間ウォッチングでもこれまであまり知らなかったようなタイプの人とも出会うことがあり、付き合いが発生してきた。役員は任期2年ですのであと1年半あります。

 ブログの更新を依頼されたこともあり、町内会についてもカテゴリーを作成し更新していきたいと思い直しているところです。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2018/11/12 13:00
2017年08月14日(月) 

20170813

大日本報徳社の8月常会は毎月の第1日曜ではなく第2日曜日。1702回常会

この町では8月は第1日曜日に夏休みの子供たちが家族や兄弟総出で環境美化活動(いわゆるゴミ拾い)を行っているからだという。私は今年、町内会の役員をしている事もあり、今の住まいに引越して3年になるが始めてこの地区行事に参加した。60名程の住民(70%程は子供や学生)が参加して近隣のゴミ拾いに汗を流した。この日の講演でも触れられていたが、こういった地区行事に参加する子供の比率は県内でも高いらしい。役員をして始めて実感した。

さて報徳常会の話に戻る。

 今回の講演は当地掛川の副市長・浅井さん。「未来に向けて掛川らしさをつくる~歴史に学びこれからの人づくりを考える~」というテーマだった。見出し画像は講演をする浅井副市長。

そもそも私が報徳の常会などに都合がつけばいつも参加しているのは、掛川という街が他の街に比べ地味・質素であって、必要な時には周囲の顔を見ながらという事もあるだろうが貯えの一部を拠出(報徳でいう「推譲」)もし合う住民意識があるのには、大日本報徳社があり報徳が盛んだったからだろうかという問題意識があったからだ。現役時代には全国を転々としていたから、定年後この街に戻って特にそう感じたからだろうが、掛川は地味な街だと実感した。もちろん地味な掛川には良いところもあれば、気になるところもある。

そういう私にとっては浅井さんの今回の常会講演は是非直接聞きたい話だった。過去に2回常会で講演をされているようで3回目の登壇だという。しかしまあ盛り沢山の内容だった。

中で印象に残ったのは、

明治10~20年頃、この地に教育施設が隣接他地域に比べると極端に多い。掛川地域には岡田良一郎が設立し建物が大日本報徳社敷地内に移築されている最も古い「冀北学舎」を始め8つの私立学校(私塾)が存在していたこと。周りの地域の私塾数は、榛原郡1、周智郡1、見付(磐田)1という状況だったらしい。

また全国で8番目(もちろん静岡県では最初)だという盲学校の前身がこの街にすでにあったという。明治31年に市内のお寺にあった東海訓盲院という学校だ。この施設は19年後に静岡市に移転し静岡盲学校となったという。私は「サークル声」というボランティア団体で視覚障がい者のために本や市の広報「広報かけがわ」を録音して利用者に届ける活動をさせてもらっている。そのため視覚障がい者の事については多少知識はあるつもりだったが、昔、掛川に全国で8番目の盲学校の前身があったという話は存じ上げなかった。そこにはやはり岡田良一郎も賛同し支援をしていたようだ。

またこの地域の学校ごとに「児童報徳会」なるものが組織されていたという話も驚く。その会則というものが隣町の小学校に保存されているようだ。会則には、毎月常会を年1回は総会をする、報徳金の積立をし慈善及び公共事業に寄付する、会員相互で救済し合う、会員の中から善行者を表彰する などと記載されているという。

私が最も共感を覚えたのは「協働によるまちづくり」を進める必要性に関するものでした。

昔、地域には「入会地、共同管理、用水路維持整備、寄り合い、全戸参加で課題解決、火消し、寺子屋、鎮守の森、一斉草刈り、助け合い、結、お互いさま」などというしくみや行事が存在し、共同で生活していた。個人ではできない事を住民総出で協力分担して環境改善・課題解決をしてきた。

昨今では、「納税するようになり、義務教育に、道路や橋は国が建設、消防署や警察署が生命財産を守り、病院が命を、保育園・学童保育で子供を守り、高齢者を介護、街には葬儀センターがいくつも立ち並ぶ。納税するとともに面倒なことは行政が負担するようになった。そのため納税者は行政に要求をするようになった。核家族・個性・多様性が優先される時代」となった。

行政は、今後は介護と医療費(健康保険)でアップアップ状態に。住民は今一度、地域でまとまって地域で課題解決ができるようなたくましい共同体が求められるような時代になってきている。

課題は多いだろうが、掛川だからこういう街づくりは、防災も含めてチャレンジする価値はあると思わせてもらいました。今すべき課題への取組みについて背中を押してもらったような心境です。

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2017/08/14 06:00
2017年07月05日(水) 

20170704

久し振りの報徳社だった。

6月常会は地区の河川清掃と重なり参加できなかったのでとても長く顔を出していなかったような印象だ。また6月常会は明治から毎月継続して、1700回の常会だったのでその常会に参加できなかったのもちょっぴり残念。1800回常会は計算では8~9年後という事ですのでその際の参加を目指すことといたしましょう。

7月は、1701回常会

今月の講師は掛川信用金庫・元理事長 岡村さん。演題「岡田良一郎先生の言葉と報徳の実践」という話でした。たまたま現在理事長をしている伊藤勝英君は中学・高校時代の同級生で仲の良かった友人の一人だったこともあり、興味深く岡村さんの話を聞くことができました。

岡田良一郎はご存知のように大日本報徳社第2代目社長。地元掛川の方はご存じだが、この地には「粟ケ岳」という山腹に大きな「茶」文字が浮かび上がる山がある。粟(あわ)を昔は淡(あわ)いという文字を使用したようで、この山のような賢人という意味で良一郎は「淡山翁」と呼ばれたという。

彼は16歳から日光の二宮尊徳塾で、実践を通した報徳思想・報徳仕法を尊徳のひざ元で直々に学んだとされる。地元へ戻ってからは尊徳の教えに沿って時代の課題、地域の課題に取り組むこととなります。

良一郎は尊徳の弟子として、父親佐平治とともに静岡県西部地域への報徳思想の指導にあたり各地に報徳社を設立してまわります。それと並行して、彼は教育や五常講の流れをくむ信用組合設立に尽力します。

教育面では、自宅離れに「冀北(きほく)学舎」(私塾)を設立。すでに明治中期から英語教材を用い教育をしていたようで、自らそこで塾生の指導に関わったという。(岡田一族ではあるが)冀北学舎塾生が大正期に二人が三度の文部大臣を輩出している。この流れを汲んで、明治13年掛川中学校(現在の掛川西高校の前身)が設立されると初代校長に着任しこの地域の教育に力を尽くしました。このため現在も同校内には、「冀北会館」という施設があります。

更に尊徳の「五常講」の形を変えたものと云えると思うのですが、掛川信用組合(現在の掛川信用金庫)を設立します。掛川信用金庫(以下掛信)のHPによれば、明治7(1874)年「資産金貸付所」が設立され岡田家推譲金を資産として設立され、明治12年にこの事業を拡大するため勧業資金積立の組合を設立したのが掛信の始まりだという事です。

このように、二宮尊徳の教えを実践する岡田良一郎の元で掛川信用金庫の前身が形作られてきた事について、講師岡村元理事長も触れていました。

さらに岡田良一郎の言葉や教えが現在も受け継がれていることについても触れていました。

掛信は、庫是といわれる良一郎の言葉を掲げています。これは講師が理事長在職中に掲げ始めたという説明がありました。

庫是 ;道徳を根とし 仁義を幹とし 公利を花とし 私利を実とす

掛信HPには、「道徳(人として守るべきこと)、仁義(人が定めた法律、規則、規律等)を根幹として公利(地域社会、会員等の利益)を優先し私利(金庫、役職員の利益)は結果である」と説明されている。当然のこととして、五常講の考え方に極めて似たものだと云える。

元理事長(前理事長?)はあっさり流して説明していたが、バブル全盛の時期に時代の流行りや目先の利益を追求するのではなく、地域社会の利益になるのかどうかを判断基準に政策・施策をきめていく、その結果で会社の利益も発生してくる。講演の中では「本業重視」と表現していた。投資話に浮かれ融資話を持ち込む顧客も多かっただろう。投資話への融資でなく、事業資金に拘って業務を続けることはなかなかできる事ではないはずだ。儲け話に浮かれ、力以上の資金を動かすことで大きく痛手を被る金融や会社が多かった中で、利益が目的ではないという考え方は大きな焦げ付きを出さずに健全性を維持し続けた根拠にもなっている。私自身も現役時代、自分の年収以上の販売経費(販売促進費)を渡され営業現場で仕事をしていた経験があるものからは、胸の痛む話である。私は現役時代、営業をしながら転勤で全国を歩いた。他の街に比べ、「掛川」は地味な印象があり、報徳社の存在が掛川気質の形成に影響があったのではないか。そのことが「報徳と掛川気質」の関係に関心を持ったきっかけだった。

また警察等からの要請もあって、振り込め詐欺が多発し始めた頃から、金融機関の立場で振込限度額を低めに設定したり、顧客対面から詐欺被害の未然防止に協力したという話も頷ける。地域を守る、利用者を守るという姿勢も感じる。道徳門・経済門の例えの話でもある。

こういう点も踏まえると、やはり人材・教育の重要性が再確認される。良一郎の言葉のように、どんな立派な庫是を掲げたとしても、現場は現実の社員というか働き手だ。今後も現場がこの庫是をかみしめて業務にあたれるかどうかだろう。父兄も参加しての入社式(入庫式?)、最初の給料での親へのプレゼントなどの話もあった。このあたりは以前の常会で聞いた「たこまん」社長の話にも通じる。

掛信の伊藤現理事長はじめ今後の幹部には、利益は目的ではなく結果であるということば、その実践や職員の教育も期待したいことろです。

今回の講演の中で 掛信の各店長に求めてきたものとして岡村さんがあげた言葉も印象的であった。

「マンネリにならないよう。私事優先しない。公明正大。自分の価値判断を大切に」

特に目新しかったのは「自分の価値判断を大切に」。会社や上司の指示考え方を鵜呑みにするなということかと思われる。「忖度せよ」という江戸時代の殿様のような総理大臣までいる時代だ。この自分の判断を求めるありかたは、この時代にこそ正しいと云える。そのためにも正しい判断ができる自己の確立が各店長には求められる。「あなたはどう思うか」が頻繁にやり取りされる社風も期待される。

この辺りの話は、HP等では触れられる機会は少なく、直接聞かせてもらえる話だったろうと思われる。感謝!

 

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2017/07/05 06:00
2017年06月04日(日) 

20170604

6月常会は、第1日曜日の4日9:30からです。そしてこの月の常会は1700回という節目の常会です。フェースブックによれば、明治8年から毎月1回休むことなく141年間も続いている行事だそうです。私の場合は昨年からですのでまだ20回も参加していないのですが、1700回というのは凄い歴史です。

今回の講演テーマは「郷土を見直す」だそうで、地元掛川の歴史やそこへの報徳思想が及ぼした影響について関心がある私にとっては興味ある常会でした。

しかし残念ながら、この日は朝8時から、地元町内会の全員参加イベントで梅雨前の「河川清掃」です。更に今年は町内会の組長を引受けていることから休むわけにもいかず、常会の参加を断念したのでした。

まあ次の1800回目の常会に参加すればいいかと思ったのですが、1800回目の常会は計算すると83年後だそうでちょっと参加は難しいようです。

また報徳社HPによれば、北海道新聞に大きな特集記事で報徳社が取り上げられたという紹介がなされていました。この記事にある掛川信用金庫伊藤勝英理事長というのは、私の中学・高校時代の同級生。会社勤めを定年で終えて地元に帰ってくるといろいろな場で知人が頑張っているのは嬉しい限りです。

報徳社HPはこちら

北海道新聞の記事はこのHPの「新着記事」に掲載れています。しかしいつ書き換えられてしまうか判りません。HPのリンク先が新しい記事に変わってしまっていたらお許しください。

 

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外部ブログ 今日も日曜日(旧ヒストリア) 投稿日時2017/06/04 19:00
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定年後、地元に戻り農業にチャレンジ中
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