先般、滋賀県の「西教寺」に行ってきました。
ここに光秀の墓があると聞いていたのですが、墓ではなくて“供養塔”でした。
しかしこの寺には光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓がありました。
天文19年(1550年)当時16歳の煕子と23歳の光秀との婚約が調いました。
そして嫁ぐ日が迫った頃、煕子は天然痘を患って顔に大きな痘痕(あばた)が残ってしまいました。
煕子の父親は考え抜いた揚句、瓜二つの妹を光秀に嫁がせました。
すぐ気が付いた光秀は「容貌などは年月や病でかわるもの、変わらないのは心の美しさです。私は煕子どのを妻と決めているので約束通りもらい受けたい」という手紙を持たせて妹を送り出し、改めて煕子を妻に迎えたとの事です。
越前の朝倉義景に仕え出したばかりでまだ不遇の頃、自宅で連歌の会を催す事になりました。
連歌の集いともなれば上等な酒や肴で、客をもてなさなければなりません。
しかし当時の光秀には、それほどの余裕は全く有りませんでした。
しかし煕子は見事な品々を用意して、光秀は面目を施したのです。
実は煕子が豊かな黒髪を売って、その費用に充てたという「泣ける話」が残されています。
天正10年、信長に反旗を翻した光秀は、その10日後秀吉軍に追われて坂本城に戻る途中、落ち武者狩りにより落命、煕子も翌日城に火をつけて自害して果てました。
ちなみに戦国美人の一人である「玉」=「細川ガラシャ(Gratia)」は、この夫妻の娘です。