渡 辺京二氏は3月13日の日経新聞 文化欄「山脈の記憶」というエッセイに「 私は山登りはしない人間である。いわゆる山男では絶対ない。偏見とは承知しているが、山男は人間嫌いなのじゃあないかとも疑っている。私が女なら山男とは 結婚しない。」と書いています。(新聞がどこかに行ってしまったので、これ以上の引用はできませんが。図書館に見に行くのも面倒)
その根拠は不明ですが、私には賛成できません。
私は山男の定義に入るか入らないかは判りません(過去の話です)が、登山の半数くらいは単独行でした。しかし人間嫌いでは絶対にありません。
一人で出かけるのは一緒に出かける人が丁度いなかっただけです。
誰もいない山小屋の前で、火を焚いて彼女のことを偲ぶ…なんていいなあと思ってたこともありましたが、大抵はへばってしまって、誰もいない小屋でボソ ボソと一人飯食って侘しくなるだけでした。燃やすべき薪も見当たらず、夜中に集めに行く元気もなく、俺はロマンチストにはなれないなあ…と寝袋に潜り込ん でいました。
山を歩いていて1~2 日ぶりでしかなくても人に出会うと人なつかしい気になります。「街には住めないからに」なんて唱ってみても、人間は一人では生きていけない生き物だ…とい う気分が強くなりました。一人で山を歩いているとひしひしと孤独感に捕らわれることがあります。人と共に居たい…という気持ちをその度に蘇らせていまし た。この気分を私は大事にしていました。雪山賛歌なんて、やせ我慢の歌いに聞こえます。「街には住めないからに」なんて唱ってもすぐに街に戻ってきます。 人間嫌いの歌ではなさそうです。
単独行で売ったのは加藤文太郎。彼自身の「単独行」もありますが、新田次郎の「孤高の人」で有名になったように思います。
彼が専ら単独行だったのは 『緊張した時に愛想笑いのつもりで薄ら笑いを浮かべる癖』は、他の登山者をバカにして嘲笑しているように受け取られてしまう事が多かった所為だ…ともされています。必ずしも単独行のみを自ら選んだのではなさそうです。
月刊「アルプ」を創設した串田孫一は山にレコ-ダーを持って行き、一人の時は休憩時に吹いていたようですが、単独行が多かったわけでもなそうです。登 山のかたちに応じた山仲間がいたようですが、「山のパンセ」に「ひとりの山」との随想で一人のよさが書かれています。それによれば人と行くの自分が仲間に 迷惑をかけているような思えて気がかりなこと、また自分の気ままに自然の中に浸りたい…との思いが挙げられています。どうも人間嫌いではないですね。
(私も真似してドイツ製のブロックフレーテを買ったりしましたが、山には持っていきませんでした。)
最近は一人用のテントを担いで一人で登る山ガールが多いようですが、彼女の哲学だか人生論だかを聞いてみたいものです。 山女ってやまめだよね。サクラマスではあるが、海には下らず、川に居着いた魚ですね。
山ガールも山に居着くことはなさそうに思えます。
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