福井地裁は原発再稼働差し止め裁判の本訴において2015年12月24日差し止め仮処分を破棄判決を下しました。http://www.asahi.com/articles/ASHDR63F1HDRPGJB00K.html
仮処分裁判における差し止め判決について日経新聞がある考え方をしめしています。
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記事に記載された【夢の新技術が実用化され、それを使えば電気代は永久にタダだが、10万年に1回の確率で地球が消滅するリスクを生むとする。そのよ うな技術を使うべきだろうか。】 なる考えは方は尤もであり、賛成できますが、原発事故をこのような事例に置き換えることに無理があると考えます。
原発事故では直接の死者は目下の所ありません、今後はどうか判りませんが。
この地震では農業用水ダムの決壊で7人の死者が出ました。
避難生活が原因で亡くなった老人や病人を軽んずる積もりはありませんが、今回の原発事故を人類の滅亡に例えるのは無理です。東京大空襲無差別爆撃、広島・長崎の原爆の方が人類滅亡に近いです。焼夷弾や原爆は存在目的自体が殺人です。
車による事故死はそれらの合計よりも遥かに多いですが、散発して起こるだけなので、ホーリズムの対象にはなりそうにない。
ホーリズムには賛成論や反対論が多いようですが、それへのコメントは私には不能です。
人の首の移植手術(昔ソ連で犬に実施し成功した)、人クローンの作成、人の受精卵の遺伝子組み換え(昨年中国でやったそうですが)などが対象になるのではないかしら。生命の尊厳と科学はかならずしも対立するものでもない…とは思いますが。
ホーリズムについての私の解釈が間違っているかも知れません。
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『原発とホーリズム』
原子力規制委員会は事故リスクは小さいとし、裁判所は大きいという。 リスクの確率計算で仮に規制委員会と合意したとしても、裁判所の判断は変わらないのではないか。
規制委と裁判所の判断の違いは、科学をめぐる議論で繰り返される「要素還元論」と「全体論(ホーリズム)」との対立の新バージョンだからだ。
原発事故のリスクを考えるときに、リスクにさらされるのは原発が立地する地域社会だ。
この地域社会を、そこに住む「個人」という要素の単純合計と考えるのが要素還元論だ。科学界の主流が取る立場である。
一方のホーリズムは、要素(個人)が集まってできた全体(地域社会)は要素の合計を超えた価値(例えば文化や歴史)を持つとみる。
非科学的とされがちだが、我々は社会についての意思決定に際しホーリズム的判断をすることが多い。
交通事故で個人が死ぬのは取り返しのつかない悲劇だが、原発事故で地域社会が丸ごと居住不能になることは、何かしら個人の死を超えた、もっと大きな損失だと感じる人も多いだろう。
このホーリズム的感性からは、確率は小さくても原発事故の損害を巨大なものと見積もる判断が出てくる。
原発事故で東京が崩壊するシミュレーション小説「東京ブラックアウト」では日本の国柄や国際社会での地位まで劣化していく様子が描かれるが、そこで失われるものは個人の損失の単純合計を超えたものだ。
もっと極端な例を考えると論点がはっきりする。
夢の新技術が実用化され、それを使えば電気代は永久にタダだが、10万年に1回の確率で地球が消滅するリスクを生むとする。そのような技術を使うべきだろうか。
要素還元主義で判断すれば事故の確率は小さいから使うべきだとなる。 だが事故=人類絶滅なら確率がいくら小さくても躊躇(ちゅうちょ)する人は多いのではないか。
人類存続は個人の生死の合計を超えた価値を持つと我々は感じるからだ。 結局、政治的な意思決定を要素還元論で考えるべきかホーリズムで考えるべきかという対立に、我々は直面しているのである。 (風都)
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