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2016年06月20日(月) 

   無宗教の私はこれまで、信仰とは自分の魂の救いのため、贖罪のため、自分を律するため、自分の死に対する恐れを和らげるため持たれるものだ…と(単なる知識として)思っていました。

 

   ところが、次のような面もあるのですね。

ミッドウエー海戦で夫を失ったある米兵の妻の言葉
「なぜ人々が過ぎた日々をなつかしみ、死者を存在させつづける信仰をつくったのか、今わかります。ひとつの生命が、深く愛し頼りきっていた人が存在しなくなってしまうことを、人の心は許容できない。認めることを拒否するからでしょう。 」
星野道夫著 「旅をする木」の「キスカ」より

 

   これには私も納得は可能です。逝った人のためにではなく、遺った人のためのものといえそうです。消滅した魂をまだ存在するがごときに扱って行事を行うことで、不存在を忘れさせる訳です。

 

   ただこれだけでは宗派の違い出てきませんね、イスラム教では宗派間の殺戮まで起こっているのですが。

 

  普通に行われている葬儀は死者との別れを惜しむためのものであって、一応宗派の方式には従っていますが、信仰と関係するとは今でも私は思ってはいません。従ってこの場合は宗教間や宗派の間に争いを生じることはないようです。

 

   大分昔の話です。我が家の墓は京都の霊園(お寺との関係はない)にあります。母の納骨時、自分でお坊さんを探して連れて行く程の熱意もないので、霊園にお任せしました。さて墓前でお経を唱える時になってお坊さんは私の方を振り向いて、おたくは日蓮宗でしたよね…と。

 

   母は日蓮宗に拘りを持っていなかったので、どこのでもいいですよ…と答えてもよかったのですが、そうです、日蓮宗です…と答えました。

 

  最近のお坊さんの懐には各宗派のお経が入っているのですかね。まさかキリスト教やイスラム教のは入っていないでしょうが…。

 

   日本人は寛容ですね。

 

.

 


閲覧数576 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2016/06/20 06:18
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