当時、我が親族の一人がブラジルへ働きに行く(詳しい状況は覚えていませんが)とのことで、横浜港のブラジル丸迄見送りに行ったことが記憶に残っています。(今は日本に帰国)
見送りの際、ブラジル丸の客室迄入ったことも記憶がありますが、狭かったような記憶があります。何十年も前のお話です。
ちょうどイペの花の話題を投稿したので、改めてブラジルとの関係を思い出しました。
当時の日本はかなり貧困だったので土地を持っていない次男坊、三男坊の仕事はなかったんです。 そこでブラジルに渡って一稼ぎしようという事になりました。
ところが大地主の下で搾取され、日本人は奴隷のような仕事をさせられていました。 そこで平野運平氏が独立した農園を切り開いていったんです。
ところがマラリアという、おそろしい病気で次々と命を落として行ったんです。 平野運平さんも34歳という若さで他界してしまいましたが、その意思を引き継いだ日本人移民の方々が現在の日本人社会を造りました。 ちなみに平野運平さんは掛川出身の方です。 (短くはこんな説明です)
わたしの思い出は高校三年の時にブラジルに渡る家族達を見送って欲しい、という話が高校の担任教師からありました。 同級生3人で横浜磯子区の海外移住センターに行きました。
そこではブラジルに渡る家族(私の担当は福島県の4人家族でした)、移住センターにはそう言う家族が訓練を受けていました。
私たちも一緒に寮に泊まって励ましました。 ブラジルの言葉、食べ物、習慣などの勉強会があったんです。 私の家族には中学3年生の女の子と小学生の男子生徒がいました。
とてもフレンドリーになったんですけど、いざ「ブラジル丸」で出発する朝・・・ テープで見送るときにその女の子だけ出て来ませんでした。 よほどつらかったんだと思います。
今その子の親族が現在、日本に働きに来ているかも知れません。 もし機会があればぜひお話ししたいです。
|