私、生まれも育ちも葛飾柴又です。 帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、 人呼んでフーテンの寅と発します。 「男はつらいよ」各作から これはフーテンの寅さんこと車寅次郎の口上です。その生業は、縁日や大道で商売をする露天商で古くから香具師(やし)、的屋(テキ屋)と呼ばれてきました。その世界ではこの挨拶を“仁義を切る”と言い、互いを名乗り見知るためのものでした。 映画『男はつらいよ』が公開されたのは1969年8月27日。その原点は68年10月から翌年の3月にかけ、フジテレビ系で同名のテレビドラマ(全26回)です。 原案と脚色の山田洋二監督との最初の打ち合わせの席で、主演の渥美清さんが、子供の頃から憧れていたテキ屋にまつわる話を面白おかしく語ったそうです。 山田監督は、渥美さんが語る「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立小便・・・」といった歯切れの良い向上に魅了されたそうです。二人の対話から、寅さんという人物が次第に出来上がっていったことは、想像に難しくありません。 では舞台をどうするか? 山田監督が真っ先に思い出したのは、葛飾柴又でした。『下町の太陽』(63年)の脚本を相談するため、作家の早乙女勝元さんを訪ねた山田監督は「お昼は柴又で食べましょう」と、帝釈天参道の団子屋に案内されました。これが山田監督にとって初めての柴又体験でした。 帝釈天題経(だいきょう)寺の裏手には、江戸川が流れ、参道にはかつての東京の下町の家並みと生活が残っていました。寅さんが旅先で想う故郷には、悠々たる川が流れていて、それが寅さんの望郷の念に繋がると監督は考えたに違いありません。こうして寅さんの故郷は、葛飾柴又となったのです。 テレビの最終回(69年3月27日放送)で寅さんは、奄美群島の徳之島でハブにかまれて死んでしまいます。その衝撃の結末に抗議が殺到、山田監督はそのファンの声に、ドラマの主人公が作者の手を離れ「みんなの寅さん」になっていることを知り、映画化を決意します。こうして映画『男はつらいよ』シリーズがスタートすることになりました。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |