「情」はやはり大事ですね。
野村監督の良さがわかりました。
努力する人を見ていてくれるのはうれしいですね。
わかりやすくて興味が湧いてきました。
さあ、明日はどんなないようかなあ・・・・楽しみです。
第一章 気づくこと 「理」を支える「情」 ある時、ミーティングで野村監督がおもむろに選手たちに尋ねてきたことがあった。 「打者として一番嫌いな球種は何か?」 一呼吸、間を置いた野村監督は続けて言った」 「打者にとって一番嫌いな球とは、投手にとって一番効果的な球である」 そしてミーティングの末に導き出された答えが、右打者であれば内角へのシュートだった。その考えを自分のものにして蘇ったのが、川崎憲次郎だった。シュートを覚えた1998年に17勝を上げ、最多勝と沢村賞に輝いたのだ。 「自分が嫌なことは相手も嫌がる」 「相手のエースを打ち崩すと、一勝が三勝分の価値になる」 野村監督は繰り返し説いていた。 試合中のベンチでは、新人は必ず野村監督の近くに座らなければならかった。私がたまたま1イニングだけ少し離れた場所に座った時などは「オイ、新人、どこに座ってるんや」とどやされたこともあった。一選手だった私が野村監督のことを評するのはおこがましいが、「生涯一捕手」を標榜されていた野村監督は、とにかく洞察力がすごかった。厳しいだけでなく、細かなところにまで目を配られる監督だった。 私がレギュラーに定着することができたのはデッドボールが手に当たり、骨折したことがきっかけだった。入団二年目の1996年。ショートのレギュラーだった池山さんが脇腹を痛め、開幕に間に合わなかったことから開幕戦にスタメンで出場することができた。池山さんは開幕2カード目から復帰したが、今度はセカンドの土橋勝征さん、辻発彦さんがそろって故障していたため、セカンドにまわって出場を続けていた。 ところが、開幕から9試合目の阪神戦である。右腕に死球を受け、尋常でない痛みに襲われた。正直、「終わった」と思った。しかし、このままベンチに下がれば、他の選手にレギュラーの座を奪われてしまう。危機感から、当時の堀内三郎トレーナーに「大丈夫です」と話して出場を続けた。あまりの痛さでバットが振れないため、次の打席ではセフティーバンドを試みた。ボールがバットに当たる瞬間、激痛が走った。次第に右手に力が入らなくなり、途中交代となってしまった。 試合後の病院で右手首尺骨の骨折と告げられた。右打者が捕手側の右手を骨折するのは、打者として失格だ。打ちたい、打ちたいとばかり考え、身体が開いているから右腕に当たってしまう。技術的にも、精神的にも恥ずかしいことだった。 レギュラー定着の機会を逃したわけだが、野村監督はそんな姿を見ていたという。トレーナーから報告を受けた野村監督は「根性があるやないか」と、けがが完治して戻ってきた時にはすぐに先発で使ってくれた。理論を押しつけるのではなく、精神的な部分に配慮される監督だったことはいうまでもない。 それは、特定の選手やコーチと一切呑みに行かなかったことにも表れている。選手は監督の行動を気にしているものである。コーチや選手と一緒に呑みに行っているなどと噂が立つと「あの選手だけ依怙贔屓されている」チーム内で不協和音が生じかねないからだ。 選手は「理論」だけではついてこない。その「理論」の潤滑油となるべき「情」 の存在が、野村監督を今でも慕う教え子が多い理由だと思う。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |