第二章 気づかされること 「誰も俺の言うことなんて、聞かないんじゃないか」 第一章では、私が選手の立場でいかに気づきを与えられてきたかについて書いた。本章では、気づきを与える立場になった時、いかに苦心してきたかを著したい。 日本代表のキャプテン――。初めて聞いた時には、耳を疑った。アテネ五輪の予選を兼ねて2003年に行われたアジア野球選手権で、長嶋茂雄監督から指名を受けたのは突然のことだった。 7月に代表候補の発表があり、ショートには当時巨人の二岡智宏や西武の松井稼頭央といったそうそうたるメンバーがそろっていた。 「自分が選ばれることはないだろう」 そう思っていたのだが、直前になってどうも代表メンバーに選ばれそうだという情報が入ってきた。しかも、キャプテンとして、という話を聞いた時には、驚くことしかできなかった。 「誰も俺の言うことなんて、聞かないんじゃないか」 それまで、長嶋監督とは一度も話をしたことがなかった。守備・走塁コーチを務めた高木豊さんとはよく話をしていたが、代表のなかで最年長というだけで選ばれたと思った。「これは困ったことになったぞ」と不安が募っていった。 当時のメンバーにはシドニー五輪に出場した当時西武の松坂大輔がいて、日本ハムの小笠原道大、中日の福留孝介、巨人の高橋由伸がいた。野球に詳しくない人でも知っている名前ばかりだった。 彼らに比べれば、知名度という点では当時の私はまったくなかった。自分がキャプテンをやっても、言うことを聞いてくれるのか。このメンバーを短期間でまとめることができるのか、正直、本大会を目前にしても、憂鬱の気持ちの方が強かった。 初めてのオールプロによる日本代表のチーム編成である。代表メンバーが初めて集まった時には、「これはまずい」と思った。チーム内には、どこかオールスターに似た雰囲気が漂っていたからだ。 「これだけのメンバーがそろっているのだから、負けるわけはない」 そんなメンバー間の思いがどこかにあった。私はこれは危険だと感じていた。長いペナントレースとは違って、五輪は一発勝負の場だ。100回やって1回しか負けないチームでも、最初にその1回が来たら、大会は終わってしまう。 もし、予選でその1回が来たら・・・。予選前の合宿中はそんなことばかり考えて、ベッドに入っても眠ることができなかった。初めてのオールプロによる日本代表のチームである。韓国、台湾に負けたら、日本プロ野球の威信が地に落ちてフアンの方が球場に足を運んでくれなくなるのではないか、という危機感があった。 「怖い」と思ってプレーしたのはこの時が初めてだった。それは、高校時代にPL学園の選手として甲子園でプレーした時の「失敗したらどうしようか」といった類(たぐい)の緊張感ではなかった。日本代表として集まったプロ野球選手だけの五輪という重圧が、重くのしかかっていた。 そんなチームにキャプテンとして、何ができるのか。簡単には答えが見つからなかった。自分にはスター選手をまとめるだけのカリスマ性がないという遠慮もあったのかもしれない。 キャプテンとは、一面的には損な役回りだと思う。結果が出た後に、矢面に立たされるのはキャプテンだ。チームが敗れれば、周囲からうまくまとめられなかったと言われるし、勝ったとしてもそれほど評価されることはない。 合宿場所の福岡で行われたアジア予選を前にした壮行試合では、打線が振るわず負けてしまった。「このままでは大変なことになる」。キャプテンとして、どうしたらいいのか分からなくなっていた。 そんな時に電話をかけたのは、杉浦正則さんだった。同志社大学の先輩である杉浦さんは、プロ入りの誘いを何度も断って五輪で戦うことにこだわり、1992年のバルセロナ五輪で銅メダル96年のアトランタ五輪では銀メダルを獲得して、名実ともに「ミスターアマ野球」と呼ばれた投手だ。 アマチュアのものだった五輪に、プロの選手だけで出場する。もちろん、勝利を求めて決まったことなのだが、私自身も社会人野球でプレーしていただけに、アマチュア選手が目指していた夢を奪うことに対して、申し訳ないという気持ちが強かった。 アマチュアの選手が見て、「これならオールプロが行ってよかった」と納得できる戦いにしなければいけない。そんなプレッシャーを感じていた。「正直、どうしていいか分からないです」と打ち明けた私に、杉浦さんはこう言った。 「自分が思ったことは言え。そうしないと、絶対に後悔するぞ」 二歳年上の杉浦さんは優しい性格の方で、後輩に対しても厳しいことを言うことが少ないタイプだった。その杉浦さんから、初めて厳しい言葉をかけられた。 実は2000年のシドニー五輪で古田敦也さんの代わりに杉浦さんの出場が決まった時に、電話をもらっていた。その時、杉浦さんが「おれは代わりに入ったから」と電話口で言っていたので、「メンバー表に『誰々に代わって杉浦』と書くわけじゃないじゃないですか。堂々としてください」と言ったことがあった。先輩に対して失礼かと思ったが、後輩として背中を押したかったからだ。 大会後、とある雑誌の記事で「宮本のあの言葉で吹っ切れた」と言ってくれていたのを読んだことがあったのだが、その時のことが頭にあったのだろうか。 カリスマ性などなくてもいい。リーダーとして、自分の思ったことを言わなければ、後悔する。今度は、私が杉浦さんの言葉で迷いを吹っ切ることができた。 自分にキャプテンの資質があるなどと思ったことは一度もない。キャプテンにこだわる気持ちもまったくなかった。キャプテンでなければ、バッティングピッチャー、道具係などの仕事をやってもいいとさえ思っていた。ただ、キャプテンに任命されたからには、その与えられた役割を精一杯果たそうと思うようになった。 それは、あの日の丸がついたユニフォームに初めて袖を通した時の重さによるものかもしれない。小さな日の丸ワッペンの中に、日本球界の誇り、フアンの野球への思い、結果的に予選出場を断念したアマチュア選手の五輪への想い、また長嶋茂雄監督というシンボルには間違っても恥をかかせられないという重圧。あまりにも多くのものが詰め込まれていることに気づいたのだ。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |