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2013年09月29日(日) 


鳥羽山城で今年度の発掘調査の説明会があると聞いて、現地へ行ってきました。

鳥羽山城は浜松市天竜区にあるお城です。鳥羽山城の対岸にある二俣城は訪れたことがありますが、ここを訪れるのは今回が初めてです。

説明会ということで、浜松市の職員さんが、このお城の成り立ちや、今回の発掘の成果を丁寧に説明してくださいました。


「大手口の石垣」

「本丸通用門横石垣」

「本丸内庭園遺構」
広い大手道と庭園の遺構などからこのお城は二俣城の迎賓館的な役割を持っていたのではないか、との説明でした。迎賓館的な機能の城郭というのは、一般的なお城のイメージとはかけ離れています。京都に近い場所や大大名の居城ならまだしも、こんな地方の支城での迎賓館というのは驚きですね。

今回の発掘調査により、土の中や藪の中から石垣遺構が発見されたそうです。
これらは、1590年の北条征伐後に浜松の領主となった堀尾氏により築かれたもののようです。関ヶ原の合戦後堀尾氏は松江に転封となり、鳥羽山城は二俣城とともに廃城となっていますので、1600年初頭の構造物がタイムカプセルのように眠っているということです(もっとも近代の公園化でだいぶ手を加えられている部分もあるようですが)。

浜松市は、この鳥羽山城と二俣城での発掘を今後も続けて文化財としての価値を高める事業を進めていく予定とのことでした。掛川もあやかりたいものです。

専門家に案内をしていただき、1時間ちょっとの城巡りでしたが、とても充実した時間をすごすことができました。


閲覧数628 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2013/09/29 14:02
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2013/09/29 21:55
    shinobiさん
    発掘のニュースは新聞で知りました。
    私は4年くらい前に信康公の墓参のついでに二俣城と鳥羽山城に行きましたが、当時鳥羽山城には殆ど案内板などがなかったので観光案内所で教えて頂いた経緯があります。
    次項有
  • 2013/09/30 23:34
    wakko3110さん
    鳥羽山城訪問良かったですね。(*^_^*)
    鳥羽山城は、武田軍を攻撃する際に、徳川軍が築いた付け城のようですね。
    少し調べてみました、にわか仕込みです。f^_^;

    以前長女がお腹にいた時(大分前ですが)、徳川家康にはまり、山岡荘八氏著の徳川家康を全巻読みあさったのですが、細かい城の名とかは、記憶になく情けない限りです。(^_^;)
    築山殿と長男信康殿が二俣城で自害されているのですね。
    このお二人のインパクトは、かなり強く私の心の中に残っています。
    もし信康殿が、二代目将軍になっていたら江戸時代はどうなっていたのだろう?と、思い出す度に考えていました。
    私も一度二俣城、鳥羽山城を訪問してみたいと思います。

    私が、徳川家康を読んで一番好きになったのが、家康殿の生母 於大の方です。於大の方のようになりたいとずっと思っていました。
    もう一度、徳川家康を読み返したら、きっといろいろ違った感想がわいてくるような気がします。
    家康殿の教えの中で好きなところは、人生みな借り物であり死ぬ時はみな返して死んでいく的な内容があったと思うのですが、それが一番頭の中に残っています。
    蛇足になってしまってすいません。m(._.)m

    温故知新 まだまだ歴史を勉強せねば…。
    次項有
  • 2013/10/02 06:25
    鉛筆駿河守さん
    >shinobiさん

    鳥羽山公園という案内看板はありましたが、鳥羽山城という表示は山のかなり登ったところまで登場しなかったと思います。

    郭の跡らしきところに児童公園だったような広場もあったので、天竜市では城跡というより公園的な活用をしていたようです。

    浜松市はこの鳥羽山城や二俣城のような建造物の遺構のない城郭の発掘や整備、活用に関してかなり熱心なようです。

    歴史ブームに沸く昨今ですから、こうした機運は逃さず活用したいものです。
    次項有
  • 2013/10/02 06:33
    鉛筆駿河守さん
    >wakko3110さん

    僕は戦国の3傑の中では徳川家康がもっとも好きです。
    先を見越して、慎重に!行動するところがいいですね。

    二俣城は家康の長男、信康が自害したところで、近くに信康を弔うお寺もあったと記憶しています。
    信康は乱暴なところもあったようですが、聡明で勇猛な武将であったようですから、関ヶ原の合戦で一軍を率いていれば、豊臣恩顧の武将頼みだった合戦の様相ががらりと変わり、江戸の幕府体制も僕たちの知る歴史とは大きく異なっていたかもしれません。

    実際、関ヶ原の戦いの際、秀忠の軍勢が戦場に到着しなかったため、家康が「信康が生きていれば・・・」というような発言をしたと言われています。

    このような歴史を知って現地を訪れると、歴史が一気に身近なものになりますね。
    次項有
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