2018年11月25日(日) 

 

 

(略)

>佐藤:「歌舞伎」は、「自由奔放に振る舞う」「異様な身なりをする」という意味の「かぶく」が語源です。個性を尊ぶ伝統は、わが国にもちゃんとあるわけですよ。

 

それは、考え (非現実) の内容に着目しての個性ではないようですね。アニマルと同じ次元の個性でしょう。

 

>中野:おそらく日米双方に「集団主義はカッコよくない。個人主義がカッコいい」というバイアスがあるんでしょうね。実際はどの国にも両方の側面があって、時々によって、どちらにより強いハイライトが当たっているかが違うだけでしょう。

 

日本人の場合は、徹底的に個人主義がないですね。個人主義は、利己主義の言い換えのように考えられているようでしたね。

 

>佐藤:『菊と刀』を理解するカギは、第2次大戦中の敵国研究として始まったことです。

 

そうですね。‘彼を知り己を知れば、百戦危うからず’ ですね。わが国にも敵国研究の成果はあったのでしょうかね。

 

>アメリカは当時すでに、日本占領を視野に入れていました。

 

彼らは、計画的ですからね。わが国のアメリカ占領計画の方は、どうなっていたのでしょうかね。

 

>全体主義に走った日本人を矯正するつもりだったのですが、そのためには条件があります。

>つまり日本人を「今のところは異質で『悪』だが、正しく導けばアメリカ的な『善』にめざめる存在」と位置づけること。

 

そうですね。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。

 

>すなわち、この点を矯正したら日本人もよくなるというターゲットを見つけだす(ないし、でっち上げる)ことが求められていたのです。

 

そうですね。合理的な努力ですね。

 

>ベネディクトはそれを「恥の文化」や集団主義として提示したのではないでしょうか。

 

そうでしょうね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断なしには、日本語を上手に話すことは難しい。だから、上下判断は、日本人について回ります。日本人の礼儀作法も世俗的な序列作法になっていて、下の者は敗者の作法を強いられることになっています。それで、敗者は日本人の恥である。負けじ魂が ‘恥の文化’ を作っている。生きて虜囚の辱めを受けず。

日本語は、写生画のための言語である。現実を表現するのに適している。現実は、頭の外にある。その内容は見ることができる。これに対して、非現実 (考え) は頭の中にある。内容は見ることができない。現実の内容は唯一であり、非現実の内容は個人の数だけある。

唯一の内容を真理として強調すれば、多数の個性的な内容は消えてなくなる。日本語文法には、非現実の内容を文章にして表現する構文 (時制を伴う) がないので、内容は唯一になる。だから、日本人は現実主義になり、集団主義 (個人差を抹殺する主義) になる。

国家の意見というものは、自然に聞こえてくるものではない。代表者が選ばれて、彼自身が責任をもって自己の意見を答えるから、国の意見は存在するのである。没個性で洗脳されている日本人は、代表者個人を尊重していない。日本人は、国の代表者を自分の代弁者だと思っている。だから、この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。責任の所在を意識していないからでしょう。だから、とかくこの世は無責任。泣き寝入りする。新しい一歩を踏み出すことが難しい。精力的ではあっても、計画的ではない。

 

(略)

 

 

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閲覧数417 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/11/25 04:04
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