2019年08月30日(金) 

 

 

>20055 社会運動の自己欺瞞  >四方勢至 ( 老年 京都 編集 )  02/01/05 PM05 【印刷用へ】 

>3.近代の社会運動  > 近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。

 

恋愛・人間・自由・個人etc  の概念は、欺瞞などではないでしょう。 

 

>とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念である。

 

権利 (right) は、正当な権利でしょう。なぜ我が国においては、観念が、それほど 倒錯・欺瞞・架空 にむすびついたものになるのか。それは、日本人が、観念 (idea)・概念 (concept) に親しみを感じていないからではないでしょうか。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。時制 (tense) は、英文法にあって、日本語文法にはない。

時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) に分かれて存在している。幼少の頃は、各人どの世界の内容も白紙の状態である。しかし齢を取るごとに白紙の部分は自己の内容に置き替えられてゆく。これが、各人の世界観 (world view) である。世界観は、何処までも展開が可能である。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判したら、その人は批判精神の持ち主ということになる。英語には時制があり、英米人には世界観がある。そして、批判精神を示すことにより改革運動を推進することも可能である。日本語には時制がなく、日本人には世界観がない。そして、批判精神 (非現実) が無いので、受動的に時流に流されている。空気に酔いしれる。つかみどころ (哲学) がない。信頼されない。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

>しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。

 

彼らは、自己の理想を述べていたのですね。

 

>なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。

 

そうですね。都合の悪い本質部分は、想定外にすべきではない。批判されるべきですね。それには、我々の批判精神が必要ですね。

 

>そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。>これは、明らかに「現実」のスリ代えである。

 

恋愛も可能です。人間性も守られていますね。自由な国になりましたね。我々の進むべき方向に進んでいるのではないでしょうか。

 

>しかし、(スリ代えられたものであっても)「現実」の可能性が開かれた以上、その出口を塞いでいる身分制度を解体すれば、「当然」新しい社会を実現することも可能に見える。>こうして、社会運動が登場した。

 

運動の方向が的を外れているということですか。

 

>●しかし、都合の悪い現実を捨象している限り、意識と存在が断絶した自己欺瞞の運動になることは、古代の思想運動と変わらない。(注:半ば現実に開かれているが故に、その欺瞞性がより強く意識される)

 

現実直視がなければ、現実の改善は見込めないですね。

 

>●また、都合の悪い現実を捨象している限り、現実から乖離した思想(or社会)が実現される事は有り得ない。

 

それもそうですね。

 

>●社会変革と云いながら、社会の構造については(あるべき社会の空想図以外)殆ど何も考えていない(注:これも古代以来の現実否定⇒現実捨象の倒錯思考の故である)。

 

現実を直視しなければ、現実の社会を改革するアイディアは出てきませんね。

 

>そこにあるのは、単に自らの欺瞞観念の出口を塞いでいる身分制度や資本制度を破壊せよという要求だけである。

 

そうですね。改革者には、自己の世界観が必要ですね。グランド・デザインが必要ですね。

 

>つまり、単に自分に都合の良い要求をつきつけることを、「社会を変えよう」という言葉にスリ代えただけである。

 

そうですね。言葉のすり替えだけでは、社会は変えられませんね。目先・手先の要求だけでは、社会改革は無理ですね。

 

>●つまり、「社会変革」という言葉それ自体が、欺瞞観念なのである。

 

社会変革に対する自己の内容と意思を示す必要がありますね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 

 

>だからこそ、人々は「社会運動」の奥に、何かしらいかがわしさを嗅ぎ取ってきたのであろう。

 

そうですね。内容と意思の無い人に率いられて運動することはできませんね。

 

>又、だからこそ、「社会変革」の旗の下には、壮士~活動家に至るまで、(ごく少数の例外を除いて)自己欺瞞の強い不満分子しか集まらなかったのである。(注:この点は、現在、ネット上で社会系サイトに発信している者たちも、大半が同根である。) 

 

不満分子は、何処にでもいますね。彼らには、行くところがないですね。

 

 

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閲覧数427 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/08/30 18:35
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