>AERA dot. >「菅総理は言いました」は視聴者に失礼だと思われる? >政治家に過剰敬語を使う背景 > 2021/04/22 08:00 (略) >菅義偉首相 (c)朝日新聞社 © AERA dot. 提供 >「総理がおっしゃっている」「総理がご判断される」。 >テレビ番組のキャスターや出演者が、総理大臣に尊敬語が使うことが当たり前になっている。
そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) がありますからね。朝鮮語にも階称があるので朝鮮人も似たような発言になりますね。「私は、偉大な金日成大元帥様が設立され、偉大な金正日大元帥様が輝かせてくださり、敬愛する金正恩元帥様が率いてくださる栄えある朝鮮少年団に入団し…」といった調子で宣誓することになりますね。世俗的な価値観によるゆがみを感じますね。
>本来ならメディアは、権力監視役として政治家に過剰に尊敬語を使う必要はない。
そうですね。世俗的な序列はあって無用なものですね。
>背景に何があるのか。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。 日本人の礼儀作法も、世俗的な序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら ‘序列なきところに礼儀なし’ になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制から家元制度・やくざの一家に至るまでの構造的につながっている。 日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域にまで達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
>AERA 2021年4月26日号から。 >* * * > 敬語に対する勘違いは、なぜ生まれているのか。
日本人には意思がない。従って責任もない。にも拘わらず世俗的な序列だけが厳として存在している。この現実が人々の精神的混乱を呼び起こすことになる。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。 意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。 ‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り) ‘兎角、この世は無責任’ という事か。 自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。
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