2021年05月31日(月) 

 

 

>自分たちのために、喜んで命を投げ出してくれる兵士たち。   

 

権力者にとってまことに便利な世の中になりましたね。     

 

>そんな、まさに国や権力者にとって都合の良い兵士を量産するために、子供に対する洗脳機関として学校が大いに利用された。  

 

洗脳以外の目的の学校は無かったのでしょうかね。   

 

>また、女の子も兵士を量産させるため、そして人口を増やして経済を安定させるために、「結婚して家庭を持ち、専業主婦として家を守り、夫を支えつつ子供をたくさん生み育てることが女の幸せ」という刷り込みがされた。

 

‘産めよ増やせよ’ の掛け声でしたね。   

 

>だから昔の女性は、離婚して実家に戻ってきたり、または未婚のまま結婚適齢期を過ぎたり、もしくは結婚をしたが子供が生まれなかったりすると、世間の風当たりはとても強かった。

 

まさに ‘女性は子を産む機械’ ということでしたね。   

 

>そして残念ながら、戦時中だけでなく今現在も、学校による洗脳活動は続いている。  

 

思考停止がやまらなければ、頭の中は空っぽですね。これでは困るので暗記は必要ですね。そして卒業生は受け売り専門の人になります。    

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>国にとって都合の良い人間を作り出すための洗脳機関として、学校は今も機能し続けている。  

 

自分たちの伝統・習慣はおいそれと変えられませんね。それを批判することさえ難しい。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>例えば学校の望む生徒とは、一体どんな生徒か? >それは可もなく不可もなく、全ての教科をまんべんなく出来る、全てにおいて安定して平均的に良い点数を取れる生徒。 

 

学校の望む成果は、全員が金太郎飴のような顔をした卒業生ですね。   

 

 

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閲覧数483 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/05/31 03:45
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