>日本の教育が進化しない理由 >スギタシンゴ (ンゴ先生) 2022年4月14日 09:05 >日本の教育は、お父さんの代…いや、おじいちゃんの代から大きな変化をしていない。
そうですね。学校は教えるところですね。
>それは黒板を使っているなどの物質的な話だけではなく、もっと本質的な話である。
そうでしょうね。
>今の30代40代のお父さんお母さんも、学校に母校に行けば思わず「懐かしい」と口にしてしまうだろう。 >それほどまでに時が止まっているのである。 >その頃、社会はどうかというとポケベル→PHS→携帯電話(ガラケー)→スマートフォンと変わっている。 >なぜ、このようなことが起こるのか?
教育は単なる実学 (技術) ではないですからね。
>過去の成功体験が邪魔をする >日本は戦後、ものづくりで高度経済成長を迎えた。 >その頃の日本を支えていた教育、それが今も残る、私たちが教育と言われてイメージするものである。
そうですね。それは知識の詰め込みでしたね。
>今の教育システムが悪者という議論ではない。 >今の教育システムが、かつて日本の成長を築いたことは紛れもない事実である。
そうですね。それはマニュアル人間の製造でしたね。手順書にしたがって間違いなく作業できる人たちでしたね。
>しかし、あくまでそれは過去の話。 >その時代にはまさにマッチした教育システムだが、教育が止まっている間に社会のほうが先へ進んでしまったのである。
そうですね。日本人は思考を停止していますからね。時代の方が先に進みますね。
>新しいテクノロジーによりライフスタイルが変わるのは自然なことで、ライフスタイルが変われば必要な仕事や能力も変わる。 >必要な仕事や能力が変われば、教育も変わるのが当たり前である。
そうですね。創造力が必要ですね。
>しかし教育は変わらなかった。 >それが教育と現実社会のギャップを大きくしている。 >日本の教育は世界でも遅れをとっており、ここにきてようやく【自分の力で考えて解く】という当たり前の議論がなされるレベルである。
そうですね。日本人には現実 (事実)があって、考え (非現実) がないですね。だから、自分の力で考えて解くことには不向きですね。
>日本は先進国ではなくなる >今後、あらゆる面で日本は世界から遅れをとり、取り残されるという意見すらある。
思考を停止しているとそういう事になりますね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>これに関して、もっとも悪い例が教育である。 >実際に日本の教育は遅れている。 >この原因は、まさに過去の成功体験が邪魔をしているからである。
我らは何処から来てどこに行くのか。日本人は何処にも行かないですね。それは日本人には世界観というものがないからでしょう。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>発展途上国は成功体験が無い分、ものすごい速さでテクノロジーを導入していく。 >先進国が経験した途中段階を飛ばして成長するのだ。
そうですね。テクノロジーの導入は受け売りの作業ですからね。受け売りの学習はあまり難しくないですね。能率が良いですね。
>これに対し日本は、過去の成功体験が邪魔をし、新しいモノを取り入れるのに躊躇し、批判し、否定し、変化の速度が遅れてしまう。 >そうして世界から取り残されるのである。
他から新しいもの取り入れるのは、受け売りの作業ですね。これは新しい世界を自ら切り開くことにはなりませんね。ですから、世界から取り残されることになりますね。
>実際に新しい教育論を展開すれば、たちまち古い考えの教育者から叩かれてしまう。 >古い教育を守ろうとしている人たちにより、日本の教育はどんどん遅れをとっているのである。
議論することは大切ですね。議論に弱いと叩かれますね。新しい考えの教育者は議論に勝つ必要がありますね。理論国語に磨きをかける必要がありますね。
>ここがヘンだよ日本の教育 >先生は教え、生徒は聞き、それでお互いに仕事をやっているという表面上の教育になっていて、次世代リーダーが育っていないのである。 >いわゆる、やっているフリになっているのである。
日本人は思考を停止しているので、他人の考えを仕入れてそれを生徒に教える教育しかできないですね。
>しかし、社会では全く逆のことをしなければならない。 >それこそ、やっているフリではなく、やった成果が求められるのだ。 >それを考えると、自分で考えて自分でやれ!教育のほうが、むしろしっくりくるのではなかろうか?
そうですね。しかし、日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。
>そんなこんなで大人が教育について真剣に考えましょうね!
そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣) 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。 国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。 為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)
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