>現代ビジネス >前評判は最悪でも、結局は岸信千世議員が当選…「世襲政治の止まらない連鎖」が日本にヤバすぎる悲劇をもたらす >小倉 健一 によるストーリー • 5 時間前 >前評判はさんざん >衆参5つの補欠選挙が4月23日に投開票が行われた。 >このうち安倍元総理大臣の死去に伴って行われた衆議院山口4区補選では、自民党の新人で元山口県下関市議会議員の吉田真次氏、衆議院山口2区補選では、同じく自民党の新人で、岸信夫元防衛相の世襲候補である岸信千世氏が、それぞれ当選することになった。 >同じ「安倍元首相の遺志」を継ぐとした吉田・信千世の両氏だったが、叩き上げで政策が具体的だった吉田氏に比べて、信千世氏の地元での評判はすこぶる芳しくなかったようだ。 >実際に、山口4区では次点候補にダブルスコアをつけた吉田氏と比較して、信千世氏は僅差(惜敗率90%)での勝利だ。 >「『父が病気で引退し、後を継ぐ』が出馬の理由では訴えに力を欠く」(時事通信社が報じた、党関係者の証言) >「東京で生まれ育った落下傘候補。 >地元のことはよく知らない。 >演説も抽象的で具体性に欠ける」(東京新聞が報じた関係者証言) >など、現場を取材した報道において一貫するのは、信千世氏の演説に具体性がないため、選挙戦を通じて支持が上向かないことだった。 >よほど手応えがなかったのだろう。 >なんで出たの…? >まず、信千世氏当選の背景を述べたい。 >政治家の世襲候補は、親がつくった地盤(後援組織)、看板(知名度)、かばん(お金)と呼ばれる「3バン」と呼ばれるものを継承して、選挙に立候補することができる。 >当選すれば、巨額の歳費を含めて現職有利の議員特権を手にして、さらなる世襲を生むという構図が日本にはある。
それは序列社会の定めですね。上がいなくなったら次が出る。それまで、じっと待っている。
>現職が有利になるように、政治家たちは法律や制度をつくっているのだから、ますます世襲が増えていってもおかしくない。
‘侍の子は侍’ ですね。
>自民党国会議員の3割が世襲だ。 >信千世氏の政治家当選は、必然のことだったのだ。 >加えて、地域の過疎化も、「世襲」の流れを加速させている。 >過疎化が進めば進むほど、人口は流入しなくなる。 >新しい産業が起きず、新しい住民がやってこず、地域の現役世代が職や大学進学などで地域を離れれば、地域の住民の平均年齢が上がっていくだけだ。 >これが現在の過疎地域の実態だろう。 >政治家だけが守られる >そうなれば、過疎地域の住民は、自分たちの歳入以上のサービスを行政に求めることになり、過疎地域の政治家は「いかに都市部のお金を自分の地元へと分捕り、文句がでないように分配するか」が最大のミッションになる。
地元への利益誘導の法則ですね。政治哲学の争いにはなりませんね。ノンポリ・政治音痴の日本人ではこれも致し方ないですね。
>結局、新しいアイデアを持つ政治家など必要なく、古くからの政治家に助けを求める構図ができあがる。
そうですね。
>つまり、地域が衰退すればするほど、その地域では世襲政治家が力を持つようになるのだ。 >山口県には新幹線の駅が5つもあるが、地域は衰退するばかりだ。 >しかし、衰退の一番の責任者である世襲政治家の基盤は強化されていくのである。 >山口県には4つの小選挙区があるが、そのうち3つが世襲政治家、75%である。
住民が減って小選挙区が減れば世襲政治家も少なくなりますね。無哲学でありながら世襲政治家を積極的に駆逐する方法はないでしょうね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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