>毎日新聞 >「玉砕の島」から始まった戦後80年 宮内庁幹部が明かす陛下の思い >毎日新聞によるストーリー・ >20時間・ > いたるところから火山性のガスが噴き出し、硫黄のにおいが立ちこめていた。 > 羽田空港を飛び立った政府専用機は約2時間後、南に約1200キロ離れた硫黄島(東京都小笠原村)に着陸した。 > 小雨が降る中、タラップを下りた天皇、皇后両陛下は傘を差さずに歩き、出迎えのあいさつに穏やかな表情で応えられた。 > 戦争を体験していない両陛下の戦後80年に合わせた取り組みは、7日の硫黄島訪問から始まった。 >2万人以上が犠牲になった島で > 太平洋戦争末期の激戦で元日本兵約2万1900人が犠牲になった硫黄島は「玉砕の島」と呼ばれる。 > いまだに収容できていない1万人以上の遺骨が残る。 > 両陛下は「硫黄島戦没者の碑」(天山慰霊碑)など3カ所の慰霊施設で花を供え、深々と拝礼した。 > 島を離れる前、遺族や元島民、遺骨収容団体の代表者8人と懇談した。 > 祖父母が島出身の西村怜馬さん(43)からは、戦争の記憶を聞き取って次世代に残す活動をしていると説明を受けた。 > 皇居に戻った陛下は「戦争を知らない世代に、悲惨な戦争の体験や歴史が伝えられることは大切なことだと改めて思いました」と語ったという。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
>平成は「慰霊の旅」、令和は? > 天皇と皇后が硫黄島に足を運ぶのは、戦後50年を翌年に控えた1994年2月の上皇ご夫妻以来。 > ご夫妻はその後の戦後60年、70年の節目に合わせて国内外で戦没者の追悼を続け、「慰霊の旅」と呼ばれた。 > 一部のメディアは今回の硫黄島訪問も「慰霊の旅」と表現した。 > だが、宮内庁幹部は「上皇ご夫妻は可能な限り各地を回られ、『慰霊の旅』のページを閉じられた」と話す。 > 昭和から平成、そして令和へ。 > 時代が移ろう中で、初めて迎えた節目の年。 > 幹部は言う。 > 「ご夫妻の思いは引き継ぐ。 >でも、天皇陛下は上書きするのではなく、10年後を見据え、記憶を継承する若い世代の活動を励ましたいとお考えだ」 > 両陛下は今年、原爆で大きな被害を受けた広島、長崎、激しい地上戦があった沖縄を巡ることも予定されている。
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。 めでたしめでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。 ‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
> その歩みは後にどう呼ばれるようになるのだろうか。
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>【高島博之】
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