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2013年06月28日(金) 
新聞広告を見て「二宮金次郎の一生」(三戸岡道夫著)を買ってみました。
いまさら読書でもないが掛川市のマスコットキャラクター茶のみやきんじろうと二宮金次郎は名前が似ています。もしかして、掛川にゆかりのある二宮金次郎をもじって付けたなら二宮尊徳はマスコットキャラクター君の曽爺さんかも知れないと思い注文しました。
まだ何んにも本文は読んでありません。自分はどの本も「あとがき」を先にみます。あとがきを読むと私が知っていたのは二宮金次郎のほんの一部だったことが分かりました実際は想像以上に偉大な超大物だったと知りました。読んでからの感想を書く能力はありませんが皆さんにお勧めしても良い本だと思います。
本の帯には元掛川市長榛村純一(大日本報徳社社長)さんのコメントも載っています。

閲覧数1,192 カテゴリ日記 コメント9 投稿日時2013/06/28 13:22
公開範囲外部公開
コメント(9)
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  • 2013/06/28 18:46
    多分勤勉な二ノ宮金次郎さん。
    ぐらい?

    たこをあげながら地形を量ったとか?
    今の役所的な仕事をされたとか聞いたようなきがします。
    (多分間違いかも・・・・・・)

    あらすじもう少し教えてくださいね。
    次項有
  • 2013/06/28 19:20
    ターコさん
    まーちゃさん

    みつちゃんさんが…おっしゃる様に勤勉な
    二宮金次郎としか知らないです。
    是非とも
    感想文を書いて下さいね~!
    まーちゃさんへの宿題です。
    期待していますね~!

    そう言えば
    西郷小学校には二宮金次郎の
    銅像は建立していましたかしら?

    実家の兄は
    石が好きなので二宮金次郎の
    石碑がありました(^_^;)
    次項有
  • 2013/06/29 00:16
    【伝えたいふるさとの100話から本とは関係なく貼り付けます…まーちゃ】
      栃木県(二宮町)
     「農村復興にかけた生涯」
    二宮金次郎(にのみやきんじろう)は、人びとの生活を安定させることをめざして農村を復興させた人として有名です。金次郎は天明(てんめい)七年(一七八七年)に相模国足柄郡栢山村(さがみのくにあしがらぐんかやまむら)(現在の小田原(おだわら)市)に生まれました。
     洪水で田畑を流された二宮家は、金次郎が十四歳のときに父が亡くなり、その二年後に母を失って、一家は離散します。
     金次郎は一生懸命に働いて生家を再興(さいこう)させた後、二十代なかばには小田原藩の家老の家に出入りするようになり、その家の経済を上手にきりもりします。やがてその手腕(しゅわん)が小田原藩主(はんしゅ)の大久保忠真(おおくぼただざね)に認められるようなります。
     藩は、金次郎に大久保家の分家である宇津家(うづけ)の領地である下野国桜町領(しもつけのくにさくらまちりょう)(現在の二宮町(にのみやまち))の復興(ふっこう)事業を命じます。金次郎三十五歳のときでした。
     金次郎は、荒れ果てた桜町領へおもむくにあたって自分の家や田畑、家財道具の一切を処分し、妻と二歳になる弥太郎(やたろう)を連れて二度と故郷に帰らない覚悟で旅立ちました。
     当時の桜町領は、人口も農作物の生産高も全盛期の三分の一に落ち込んでいて復興の手が付つけられないほどでした。金次郎は村人に米をただであげたり、貸したりして荒れ果てた田畑の復興をしました。その一方で、村の見回りを行い、投票で働き者を選んで褒美(ほうび)を与えました。これは、村人の生産意欲を高めるためでした。
     しかし、領内には金次郎のやり方に反感を抱く者もいました。特に、同じ小田原藩から派遣(はけん)された上役である武士は、農民出身の金次郎の復興事業にねたみを持って、ことごとく反対しました。
     金次郎は藩に辞任を申し出ましたが、聞き入れられませんでした。復興事業が始まって七年目の文政(ぶんせい)十二年(一八二九年)の正月のことです。金次郎は、江戸へ行くといって桜町をたち、そのまま行方知れずとなりました。
     金次郎を慕(した)っていた人々は大騒ぎとなり、金次郎の復帰を求めて、許可を得ないで江戸の領主に願い出る者たちも出始めました。
     しかし、金次郎は成田山(なりたさん)(現在の成田市(なりたし))で断食修行(だんじきしゅぎょう)をしていたのです。修行を終えた金次郎は、一二五人もの出迎えを受けて三ヵ月ぶりに桜町に戻ってきます。
     金次郎に反対していた上役は江戸に呼び戻されました。その後、荒地は次々と元のように耕し直されて生産が高まったのです。
     金次郎による農村復興事業は、報徳仕法(ほうとくしほう)とよばれる独自の方法としてその方式が整えられ、烏山藩(からすやまはん)や谷田部藩(やたべはん)(茂木藩(もてぎはん))などにも急速に広まっていきました。
     一八三〇年代、天保(てんぽう)の飢(き)きんによる凶作(きょうさく)が二度にわたって全国の農村を襲いましたが、金次郎は飢きんが起こる数年前から凶作への対策を考えていました。村人たちは、金次郎の指導で飢きんを乗り切り、より深い信頼を寄せるようになったのでした。
     天保八年(一八三七年)、金次郎が五十一歳のときに桜町領の復興事業は終わり、領地の経営は宇津家に引き渡されました。
     金次郎が行った復興事業は幕府の注目するところとなります。天保十三年(一八四二年)、金次郎は幕臣(ばくしん)として登用されて、尊徳(たかのり(そんとく))と名のります。
     尊徳となってからの事業は、徳川家康(とくがわいえやす)のお墓があり幕府にとって重要な日光(にっこう)の地で実施されます。しかし、安政(あんせい)三年(一八五六年)尊徳は、事業の途中でその拠点である今市(いまいち)(現在の今市市)の報徳役所で、七十歳の生涯を閉じ、その事業は息子や弟子(でし)たちに引き継がれました。
     今も二宮町の農家に一冊の嘆願書(たんがんしょ)の写しが残っています。これは、天保十四年(一八四三年)に金次郎が幕府に登用(とうよう)された後も、金次郎が実施した農村復興事業が、そのまま継続されるようにと、村民たちが切々と願い上げたものです。
     このとき、親身になって村民たちの相談にのり、この歎願書(たんがんしょ)の作成にかかわったのは、かつて金次郎にさまざまないやがらせをした小田原藩士の豊田正作(とよたしょうさく)でした。正作は、江戸に戻された後に金次郎の復興事業の効果に感心して、再び桜町におもむいて金次郎に協力したのでした。この嘆願書の写しも筆跡(ひっせき)から彼が書いたものと考えられます。
     二宮町の町名の由来は、昭和二十九年(一九五四年)の町村合併の際に二宮金次郎にちなんで付けられたものです。
    次項有
  • 2013/06/29 07:32
    ありがとうございます。
    分かりました。

    なかなか出来ない事ですね。
    頭がさがります。

    こんなに長い文の打ち込みが又すごいです。
    途中で駄目になりそうです(私の場合)
    次項有
  • 2013/06/29 11:23
    みつちゃんさん
    ターコさん
    ありがとうございます。
    二宮金次郎のこと何も知らないのです。薪を背負って本を読んでいる姿から、手伝いながら勉強した真面目な子供だったという思いしか浮かびません。
    大人になって自ら、勤労 分度 推譲の報徳の教えを行った人としか知りませんでした。

    みつちゃんさん 私が長い文の打ち込みできる訳ありません。パソコンの画面をコピー貼り付けしただけです(この操作最近覚えました)片手の指一本でキーボードを時間をかけて押す事が出来るだけです。

    ターコさん 知っている通り二宮金次郎の弟子の岡田良一郎は倉真出身の方、自宅に冀北学舎(倉真報徳社)をつくり、報徳の思想を普及したそうです。お兄さんの年代の人は近隣から集まって勉強したのです。実家に来た時直に聞いて下さい。
    この岡田さんは現在の掛信をつくった方、掛西高の初代校長を務めた方ですね。

    お兄さんは報徳ばかりでなく全てに凄い人です一番に尊敬しています。
    実家に数年前からある石の金次郎像は何処かの地区で傷んだから作り替える時お兄さんが譲り受けて来たものですね。(石が好きばかりでなく特別の思いがあると思います)石だから年月経てば欠けたり割れたり少しはしていると思います。この前投稿してくれた写真は良かったですお兄さんが修理してくれたのでしょうね。
    現在の小学校にはあります。当時の事これもお兄さんに聞いて教えて下さい。
    感想文は書けませんこれで由として下さい。
    次項有
  • 2013/06/29 12:39
    ターコさん
    まーちゃさん

    二宮金次郎の事良く解りました。
    ありがとうございます。

    実家の石の金次郎像は
    兄が譲り受けたものなんですね~!

    初耳です。

    私は実家に行っても留守の時が多いので
    お墓参りをしてすぐ帰るので
    知らない事ばかりです。

    教えて下さいまして
    ありがとうございました(*^_^*)
    次項有
  • 2013/06/30 00:09
    本当に、良く解りました。ありがとうございます。

    小学校の分校にあった二宮金次郎の姿・・・。

    一番上の姉が(私は五番目)学校に行くとき、かばんを友達に持ってもらい、
    背負子で敷き草を途中の茶畑まで運んでいく姿とダブり、
    貧しい家庭の親孝行の姿としか記憶にありませんでした。

    可愛い「茶のみやきんじろう」・・・。
    偉大な先人の知らしめる素晴らしいキャラクターですね。
    けっトラ市にも来てくれるので、尊敬してお迎えしたいと思います。
    次項有
  • 2013/06/30 11:08
    隣のとろろ園さん
    ありがとうございます。
    ご兄弟大勢で良かったですね。今思えば今の一人っ子や二人っ子よりずっと良かったと思います。当時は子供も立派な働き手だった、嫌々した手伝いも後のためにはなっていますからね。今は農家でも手伝わせることが無い水汲みも焚き木とりも何にもない…。

    可愛い「茶のみやきんじろう」・・・。
    これから真夏のイベントに参加盛り上げてくれる。
    どんなに暑いだろう大変だろうと思いなおいっそう
    「尊敬してお迎えしたいと思います」が中からおじいさんが出てくると…
    (若い新入職員の研修の場にすると金次郎さんも喜ぶかもねぇ)
    次項有
  • 2013/07/05 14:25
    セレナーデさん ありがとうございます。
    この本目次とあとがきを見ただけで閉じて終いました。ダメな自分です。
    報徳社を大修理したり茶のみやきんじろうのゆるキャラ…いろいろあるのでしょう。
    天気回復と同時に暑くなると思いますが私にとっては暑くないと気が晴れません日の照るのを待っている昨日今日です。(笑)
    次項有
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