オリンピックにまつわるよいお話ですね。
メダルより気持がそれ以上だったのですね。
戦争の大変なおもいをバレーにかけたのですね。
すぐ飽き性の私はとてもマネはできません。
けんかしても次の日にはケンロリの性格です。
7年後の日本はどうなっていくのでしょうか?
『男子バレー黄金期と低迷期』【雪辱 やるなら一番に】 東京が2020年五輪の開催を射止めた8日は、バレーボール男子日本代表にとって屈辱の日だった。 愛知県小牧市で開かれた世界選手権アジア最終予選で韓国に敗れ、1960年(昭和35)の初参加以来、14回続けた選手権出場を逃した。 「ふがいない。俺が出てたらなあ」。同県稲沢市に本拠地を置くVリーグ、豊田合成トレフェルサの選手、古賀太一郎さん(23)は寮のテレビの前でもどかしさを押し殺した。日本代表候補の一人だが、小牧の試合には招集されなかった。 身長170㌢はチーム一低いが、度胸と負けん気の強さは一、二を争う。7月のユニバーシアード大会(ロシア)に出場し、日本とって8年ぶりのメダルとなる銅メダル獲得に貢献。スパイクレシーブの最優秀選手に選ばれ自信がついた。7年後の東京五輪は30歳の円熟期。それまでに自分が代表チームを立て直してやろうという気になってきた。 かつて男子バレーには三大会連続で五輪の表彰台に上がった黄金期があった。その最初が64(同39)年の東京大会。女子の「東洋の魔女」に隠れがちだったが、銅メダルを取った。当時選手だった菅原貞敬(さだとし)さん(74)=長泉町、Vリーグ女子・日立リウ″ァーレ総監督=はどんなボールも拾うレシーブの名手。テレビ中継では「また菅原がドブネズミのようにコートを転げ回った」と言はれた。 原動力は欧米への「憎しみ」だった。秋田で育った少年時代。米軍の空襲で町が焼かれ、出征した人は骨になって帰ってきた。いつか見返してやる。敗戦後、中学の先生の誘いでバレーを始めた。実業団に進み、毎日7時間の猛練習で代表の座をつかんだ。 五輪の開会式で、入場行進を待つ各国の選手たちがにこやかにあいさつを交わす中、欧米選手をにらみつけた。「ハーイ」と手を挙げかけたガイジンから、わざと視線をそらした。「こいつらには絶対負けられん」。メダルを取り、世界に日本の力を見せつけることだけ考えていた。 コートでは闘志を抑えられず全身が震えた。「体格で劣る俺たちはレシーブで拾うしかない」と硬い床に飛び込んだ。憎き米ソにも勝ち、まさに傷だらけで上った表彰台。でも台から下りた途端ほっとした。あれだけ欲しかったメダルは観客席に放り投げた。 金属の塊に興味はない。メダルは心にあればいい。閉会式で肌の色の違う選手たちが肩を組むのを見て、憎しみからも解放された。五輪が人生を変えてくれたと思う。 その時から56年後の東京五輪出場を目指す古賀さん。稲沢市にある車のブレーキホース工場で仕事を終えた後、毎日体育館へ向かう。兄の影響で幼稚園から始めたバレーだが、誰よりもたくさん練習し、同世代ではトップクラスになった自負がある。 まだ世界との差は感じるが、頭を使い工夫して戦えば、決して手の届かない所ではないと思う。「やるからには一番に」。昔と違って憎しみも劣等感もない。純粋な気持ちが夢をかなえると信じたい。 (この連載は池田悌一、河郷丈史が担当しました) × × 写したのは まーちゃ。間違いはお許し下さい。 |