
中日新聞サンデー版の特集は「ひめゆり学徒隊」
太平洋戦争末期、約20万人が命を落とした沖縄戦。組織的な戦闘がほぼ終結した6月23日は、沖縄慰霊の日とされています。戦後70年の今年、ひめゆり学徒隊の悲劇を紹介します。
鉄の暴風 鉄の雨の中をさまよう
大規模な空襲や艦砲射撃は「鉄の雨」「鉄の暴風」と呼ばれる激しいものでした。ひめゆり学徒隊は負傷兵の看護に尽くしましたが、動員から2か月後に南部へ撤退。さらに約1か月後の6月18日、突然の解散命令により、戦場をさまよい、多くの犠牲者を出すことになります。
ひめゆり学徒隊とは
学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の学徒・教師で構成された240人を指します。約57%に当たる136人が帰らぬ人となりました。
由来は?
両校の校友会誌「白百合」と「乙姫」をひとつにする際、新しい校友会誌を「姫百合」と名付けます。これが「ひめゆり」の由来となりました。
何も知らないまま10代の少女たちは戦場へ
昭和20年(1945)3月23日
「いよいよ米軍の上陸だ。お国のために尽くすときが来たのだ。君たちは陸軍病院で頑張ってもらいたい」
向こうで宿題やろうっと。すぐ帰って来られるわよね、日本は勝つんだもの
(安全な病棟で看護活動をするのだろう・・・) 南風原の沖縄陸軍病院へ
動員後3月23日~
陸軍病院といっても病棟はなく、壕(ごう・土を掘った穴で、戦時中は敵襲に備えて各地に造られていた。防空壕、地下壕などともいわれる。)の中に二段ベッドを備えた粗末なものでした。壕内は悪臭が充満し、負傷兵のうめき声が絶えませんでした。学徒隊は飯上げ(砲弾の飛ぶ中、炊事場にご飯を取りに行く危険な任務、壕に戻ると、おにぎりにして軍医、負傷兵、学徒らで分けた。一日一個のおにぎりは、当初はテニスボールぐらいだったが、しだいにピンポン玉ぐらいに)、負傷兵の食事介助、包帯交換、汚物処理、弾丸摘出や手足切断の手術の手伝い、遺体埋葬などを担いました。
仲里マサエさんの証言 手術時の「人間燭台」
「手術は敵の砲撃が途絶える夜間にしますが、照明はカーバイドランプだけでは足りないので、直径3センチくらいの大蝋燭で軍医の手元を照らします。蝋燭持ちも私たちの仕事でした。人間燭台と呼んでいました。溶けた蝋燭が手に流れて、もう非常に熱く、泣きたくなるくらいでした」
撤退後5月25日~
「自分で歩ける者だけ連れて出よ」。それが撤退時の命令でした。爆撃と雨で、泥沼と化した南部への道。両足のない負傷兵が泥の中を這いずっていく姿も見られました。南部に到着すると、六つの壕へ分散して入りました。もはや医療品はなく、食料調達や水くみ、伝令などにあたりました。
比嘉文子さんの証言 お腹をやられた昌ちゃん
手の指が切れ、お腹もやられて息をするたびに、腸がブクッブックと飛び出すんです。(中略)「昌ちゃん大丈夫だから頑張ってね」と言ったら、指の切れた手で私の手を強く握るんです。悲しくなって、胸がしめつけられる思いでした。「お腹をやられたら死ぬと教えられたでしょう。どうせ駄目だから水を頂戴」と欲しがるんです。
解散後6月18日~
米軍が迫る中、学徒隊に解散命令が下ります。「今日からは自らの判断で行動するように」と敵前に放り出されたのです。行く当てもなく壕を出たものの、外は砲弾の雨。多くの学徒が断崖に追い詰められ、命を落としました。
宮城喜久子さんの証言 お母さんに会いたい
「もう最後だから、歌を歌おうよ」と海に向かって「ふるさと」を歌ったんです。(中略)「お母さんに会いたい」と板良敷良子さんが泣きながら言いました。「もう一度、弾の落ちない青空の下で大手を振って歩きたいね」とも言いました。それを聞くと、皆声を出して泣きました
この時期の死亡者数117人(うち教師11人)
「捕虜になるのは恥」「男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」と教えられ、戦場をさまよった末に死んでいった
戦後は小説や映画に
戦後、ひめゆり学徒隊は全国的に知られるようになりました。1949年には雑誌に「ひめゆりの塔」(石野径一郎)が連載され、53年には映画「ひめゆりの塔」(監督:今井正)が公開され、注目を集めました。
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誤字脱字写し間違いあります。
まだいろいろと取材されとこと書いてありますが写すのはこれ位にします。
私は戦時中の生まれですが戦争のこと全く知らないので申し訳なく思っています。