2016年03月25日(金) 

 

 

 

>理系、いわゆる自然科学は人間と自然界との関係を追及することで、「物質的に」より良い世界を作って来た。

>対して文系、つまり社会科学や人文科学は過去の歴史や人間の行動、そういったものを紐解いて来た。

>その目的は「精神的、文化的に」より良い世界を作ること、すなわち「より良い社会、より良い生き方」を追及することだと思う。

 

米国では高度な職業人を育成するために、法学校 (law school)、医学校 (medical school) などの大学院 (graduate school) に学士 (bachelor) を入学させて職業訓練をさせている。

 

>海外の学会で、日本の学者は日本人同士で固まってしまうという話を以前よく耳にした。

>その一因はもちろん英語力だったわけだが、「専門以外の話ができない」というのも大きな原因らしいと聞く。

>つまるとこちゃんとした教養教育が行われていないのだ。今の政府は海外の大学でどれほど教養教育が重視されているか知らないようだ。

 

井の中の蛙大海を知らずということか。心ここにあらざれば、視れども見えず。(None are so blind as those who will not see.)

哲学 (非現実) が無いので、目先 (現実) の話しかできない。つまるところ、教養が無い。

非現実の内容を示す文章を作るには、時制が必要。英語には時制が有って、日本語にはない。

非現実の文章が作文できないと、正しい考え(内容)ができない。矛盾を文中から排除できないからである。だから、科学そのものができない。

英米では、哲学博士 (Doctor of Philosophy; Ph. D.) となって、はじめて科学者として認められる。

 

>大学を出た大多数の人間は、自分の専攻分野とは直接関わりの無い職業に就くだろう。そこで物を言うのが教養ではないのか?

>教養、つまり全般にわたる基礎的な知識は、あらゆる思考の上で必須のものだ。

 

現実の内容は頭の外にある。

非現実の内容は頭の中にある。非現実の内容は、考えの内容である。

あるべき姿は、非現実の内容である。

日本人は、現実肯定主義であるから、非現実の内容は、常に想定外になっている。だから、無哲学・能天気である。我が国では、インテリは頭でっかち・曲学阿世になっていて、’ああでもなければ、こうでもない’ と力説する。自分は、どうであるかを言わないので、相手に対して説得力がない。無教養・低民度を表している。

非現実の内容を作るには、時制のある構文が必要である。時制は英語にあって、日本語にはない。

 

>大学をただの職業訓練校にして、即戦力という名の働きアリ量産装置にしてしまったら何ら新しい地平は生まれない。技術革新も社会の発展も無い、競争力の欠片も無い国が残るだけだ。

 

実学 (技術) は現実の内容であり、哲学は非現実の内容である。

実学は中等教育で行われ、哲学には高等教育が必要である。

中等教育の充実により、我が国は技術立国となった。

高等教育の低迷により、我が国は指導力を持たない国として今日に至っている。

 

日本人には哲学が無い。だから、我が国の政治家には政治哲学が無い。それで、彼らは政治音痴になっている。

大同 (非現実) が無いので、小異 (現実) の激突に明け暮れる。議員は、離合集散を繰り返し、小異を捨てて大同につく余地が無い。未来社会の建設を目的とした大同団結ができない。団結といえば、無哲学な翼賛会を思い出すのみ。まさに、小人の国である。

 

矛盾があれば考えは成り立たない。矛盾が無ければそれは一つの考えであり、各人の内容の違いは、それぞれの意見の違いとなる。非現実の内容が理解できなければ、こうした個人主義自体も理解できない。

 

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閲覧数598 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/03/25 11:19
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