2019年04月25日(木) 

 

>失礼します。>お釈迦さんは「諸法無我」ということを説かれています。>私もこのことを知る前までは我というものがあると信じて疑いませんでした。>固定的で独立独歩する我が存在すると思っていました。

 

私も、そう思っていますよ。ただし、’あるべき姿’ としてですけれどもね。

 

>仏教では我というのは意識が作り出す虚妄であるというのです。>同じく自他対立する概念も存在しない。

 

対立は、エネルギーを消耗しますからね。避けたいですね。

 

>「人間は単独で存在できず相互相関し相互依存しないと生きていけない」ということを言葉ではいいつつも納得はしていなかった気がします。>全体の中の一つという感覚がありませんでした。(今も完治してないんですけど)

 

魚の群れて泳ぐ様を見ていると、相互依存の大切さを実感しますね。

 

>私のように固定的自我が存在すると思って疑いもしない人がおおくなっているのではないでしょうか? 

 

そうでしょうね。固定的は良くないですね。思考停止の表れでしょうね。

 

>そういった自分の偏狭な見方を疑いもせず容認してしまう人が個人主義を持ち出すように思えてなりません。

 

そうですね。思考を停止している人は、偏狭にならざるを得ませんね。建前 (口実・言い訳・言い逃れ) としては、個人主義を標榜していますけれどもね。

 

>同じく自他を対立するとみたらギブアンドテイクということも自然ではあります。>しかしなんの見返りも期待せずにする行為というのを説明することができない。

 

まわりまわって自分のところへ福が到来します。情けは、人の為ならず。

 

>自他対立しない「あんたも私も一緒」であれば説明できるように思えます。

 

そうですね。共通の目標を持てば、対立も解決しやすくなりますね。

 

>自分の子を社会の子としてみない親あるいはその周辺の意識変化。

 

子供は、社会の子です。

 

>以前では我を通すことは恥という意識がアピールするなどといった意識の変容。

 

自己主張は、自主・独立の気概の表れですね。声援が必要ですね。

 

>滅私奉公というのも死語になりました。

 

恣意 (私意・我儘・身勝手) には、気を付けないといけませんね。不自由を常と思えば不足なしか。

 

>全体の中の一部分という意識をもつことは同時に謙虚さにつながるのではないかと思いますが今は逆行し我の意識が肥大化し見せかけだけの謙虚さでいるのではないかと思います

 

無哲学・能天気の状態では、’あるべき姿’ の下で団結することは、難しいでしょうね。国会議員たちも、離合集散を繰り返しています。’考える人’ にならなければ、政治音痴は治らないでしょうね。建設的な日本人が必要です。

 

 

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閲覧数546 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/04/25 23:07
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