> 【世界の捉え方:「単純・固定的・分解」と「複雑・流動的・連続体」】 >西洋は、世界は固定的で単純な法則に分解できるもの、と捉えます。>なので世界を理解するには、どんどん細かいカテゴリーに分解していって、そのものが持つ変わらない属性を理解するというアプローチを取ります。>世界は固定されているので、「名詞」によって世界を体系的に記述します。
リンネ式植物分類法のようなものですね。
> 東洋は、世界は流動的であり、複合的な要因によっていろんな物事がおきる複雑なものと捉えます。
現実の世界は、千変万化していますね。
>常に変わりゆくものを区切ることはできないので、全ては一続きの連続体であり、物事はその文脈と関係性によって認識されます。>言葉としては「動詞」による体系となっていきます。
発言は、実況放送・現状報告の内容ばかりですね。
> 【人の特性:「個人主義・競争・目的達成」と「集団主義・協調・有機体」】 > 人や組織の捉え方や個性も、上に書いた世界の捉え方に則っています。> 西洋では、「固定的な属性」で世界を理解していたのと同じく、人も環境に左右されない「その人ならではの個性」を持っているという前提に立ちます。
そうですね。’つかみどころのない人間’ にはなりにくいですね。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>そのため、個人が自分自身の意思や主体性を発揮し、人よりも秀でることを目指すことが奨励されます。
個性の実現ですね。
>どんな行動をとったのかも、あくまで「その個人」の中にある特性に原因を求めがちです。
意思のある個人には、責任がある。責任者になることができる。
>組織も、その延長線上にあり、「目的達成のためのシステム」として捉えられる傾向が強いです。
‘我らはどこに向かうのか’ という哲学的な命題がありますね。
> 東洋では、「流動的で複雑な世界」の中に居る人も、関係性や状況の中に存在するものとして認識されます。
眼前の現実は、千変万化してとどまるところを知りません。
>個人ではなく集団の目標を重視し、そのための協調的な行動が奨励されます。
没個性的ですね。個人に属する考えの内容というものが存在しない。
>行動の原因も文脈の中にあると捉えられ、組織もそれ自体が有機体として存続することが重視されます。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。意思の無い個人には、責任もない。とかくこの世は、無責任。
> 【「固定的」から「流動的」への変化】 >こうやって整理して眺めると、いま多く見られている企業運営のコンセプトや考え方、そして当然それに基づいている仕組みや制度など、「西洋的」な特徴を色濃く反映しているのが良く分かります。> 最近、新しい組織運営のカタチが模索されていることは、「今の組織運営の抱える問題点を解決する」ということではなく、そもそも、「世界を“固定的”なものから“流動的”なものへと捉え直す」という大きな流れの中で起きている変化と捉える方が輪郭がはっきりしそうです。
印欧語族の考えの内容は、文法上の時制により独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来など) に分けられている。各々の世界は個人により独立した展開が可能である。 日本人の内容は、日本語の文法に時制がないから、眼前の現実しかない。そして、その現実は、千変万化する。その正解は、常に唯一つ存在する。印欧語族の非現実は個人の考えの内容になるが、日本人の眼前の現実は考え (非現実) にはならない。このことは、アニマルについてもいえることである。
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