28歳と11ヶ月の時に2歳年下の女房殿と結婚、因みにお見合いでした。まぁからっきし女性には縁の無かった僕は何の抵抗も無くお見合いをし、何の抵抗も無く結婚しました。 決め手?は女房殿が僕の母親との同居に全く抵抗が無かった事。実は女房殿、幼い時に父親を亡くし、母親は僕と出会う数年前に病気で突然亡くしてしまい、ある意味で親子関係というものに飢えていたのか?それとも突然母親を亡くしたショックを引きずってしまっていたのか?同居をスンナリと受け入れて兎にも角にも同居がスタートしました。 でも、そんな「親との同居に抵抗無し」といった思いは結婚後間も無く自ら撤回を宣言!「友達から相談されたら『(同居は)絶対にやめろ!』ってアドバイスする」ってブー垂れてましたよ、マジでね。 まぁ母親自身は決して嫁いびりをする様な性格では無かったんですが、古い考えであった事は確か。だから「この家は私が家長」みたいな雰囲気を醸し出していた事は否定でき無いかな?。 母親は当初「家計は私が預かる」と言って譲らなかったんですが、そこを何とかなだめすかして女房殿に譲らせました。その時には「主婦」ってのは読んで字の如く主なる婦人(女性)、ひとつ屋根の下に主なる女性2人ってのは成り立た無いんだなぁと痛感させられました。 そんな母親は長男が幼稚園に入園した頃に老人性認知症を発症、徐々に悪化していきました。以後外で働く僕に対し、専業主婦の女房殿は2人の子育てと共に義理の母親の介護に縛られる事となりました。こう書くと数行でお終いだけど、サラリーマンで家を空ける僕に対し、子育てと終わりの見え無い介護で出口を無くした女房殿は次第に体調を崩してしまいます。母親が施設入所直前には体重が30キロ台、ストレス性の十二指腸潰瘍、同じくストレス性の蕁麻疹まで発症、夜は寝られず身体中を掻き毟る日々でした。 「このままじゃお母さんより私が先に死んじゃう!」との訴えで遅まきながら母親の施設入所を決断、以後女房殿の十二指腸潰瘍、蕁麻疹は薄皮を剥がす様に快方に向かいました。 この時にはつくずく「男は仕事って言うけど、これって仕事を口実に逃げているだよな」と懺悔・後悔しました。そんな時に先輩の前で介護を愚痴ったら「育ててくれた母親の介護で愚痴るのはおかしい!」と説教されてしまい「綺麗事言いやがって、こいつは絶対に自分じゃ何もしてね〜な」と幻滅、以後この御仁とはこちらから疎遠とさせて頂きました。 【閑話休題】 そんな女房殿との生活、勿論順風満帆だったなんて口が裂けても言えません、大嵐・大地震・大津波に翻弄され、15年程度前には離婚届にサインした事も…。そこまで崖っぷちに立たされた夫婦の殆どは破局に向かうかと思うのですが、でも何故か我が家はほんの少しずつ軌道修正?され、今後の事は分からないけれど少なくとも現在は何とか関係を維持しているところです。 まぁこの夫婦最大の危機は率直に言って夫婦の歴史の中では「二度と思い出したくも無い」最大にして最悪の暗黒の年月だったんで、ここではこれ以上書くのはやめておきます。因みにその時書いた離婚届は、数年前まで風呂敷に包んで箪笥の奥深くに仕舞ってある事を確認済み(但し現在は行方を知らない)。 大津波?からしばらく経ち、大喧嘩のテンポが少しゆっくりした頃に女房殿が「車を買い替えたい!」って言い出し、一緒にディーラー巡りをした時には「車を買い替えるって事は離婚は思いとどまったのかな?」とほんのちょっぴりですがホッとした事を覚えてます。 兎にも角にも何とか持ちこたえた関係ですが、ただ一つだけ極めて残念なのは、度重なるマジな大喧嘩を目の当たりにした為なのか?気付いたら長男坊は僕達夫婦をお父さん、お母さんとは呼ばなくなり、◯◯さん、△△さんと名前で呼ぶ様になってしまい今に至ってしまった事。因みに次男坊はお父さん、お母さんと呼んでくれてます。 さて、そんな女房殿との関係は結婚から33年が経ちました。 僕は未だにテレビなどで芸能人の離婚等の話題が取り上げられたりすると、内心ドッキリしますが、女房殿をチラ見するとテレビを観ながらゲラゲラ笑ってるので今は何とも思ってはいないのかな?とも感じてます。 そんなこんなで人生の半分以上を女房殿と過ごし、そしてこれから何年一緒に居るのか?女房殿が自身を振り返った時、自分の人生に点数をつけると何点なのか?怖くて女房殿に聞く勇気がありません…。 先日工務店のスタッフと話す機会があり、スタッフから「登記はどうされるんですか?」と聞かれ、生前贈与で女房殿の名義にするって言ったら驚かれました。その横で女房殿も「どんな風の吹き回しなのかねぇ…」と笑ってましたが。 ここは感謝と懺悔の気持ちをごちゃ混ぜにして、今回建てた終の棲家は生前贈与しておきたいと思います。 |