2019年06月26日(水) 

 

 

(略)

> 日本に一時帰国すると街の人びとがそっけない気がしてしまうのは、ドイツに比べて、他人であるわたしと関わろうとする人が少ないからだろう。>たとえば「田舎の温かみ」に憧れる人がいるけど、それは狭いコミュニティのなかで『世間の一員』として強制的に他人の舞台に上げられることで、人とのつながりを感じて癒されたいのだと思う。

 

そうですね。日本人のような序列人間は、自己の序列に帰属意識を託していますね。

 

>いままで日本では『○○学校』とか『××社』とかっていう集団への帰属意識が強くて、同じ集団に所属している人はみんな同じ舞台に立つ仲間だと認識していたのだろう。

 

わが国は、序列社会ですからね。人々は、自己の序列の中に自分のあることを確認して安堵しています。序列の掟に背くものは、非国民・棄民・外人となるでしょう。

 

>でもその『集団』という意識が弱くなることで、同じ舞台に立つ人がいなくなり、『世間』が狭くなってしまった。

 

そうですね。序列意識が弱くなると、安易に声を掛けるのが難しくなった。言葉遣いが効力を発揮しなくなったからでしょう。

 

>そんな世界だからこそ、うまく人に甘えられなかったり、孤独感を強く感じたりして、生きづらいと思う人が多いんじゃないかなぁなんて思う。

 

そうですね。なあなあ主義が通じない。なあなあ主義は、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) だからである。恣意 (私意・我儘・身勝手) は、文章にならない。それで、意味・意義がない。議論にならない。問題にならない。

 

> 個を重視するからこそ大切な『つながり』 >これからは日本でももっと、『個人』が軸になっていくだろう。

 

日本人には、個人主義の理解は難しいでしょうね。個人主義は、考え (非現実) の自由に基づいているでしょう。考えの内容は、人様々ですからね。

しかるに、日本人の脳裏には、非現実 (考え) の内容がない。ですから、現実の中の ‘個人’ といえば、個人タクシーのようなものになります。 

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話の内容を理解するためには、文章を理解しなくてはならない。これは、骨が折れる。だから、日本人は文章の理解をやめて、通常、忖度 (推察) に切り替えている。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。聞き手の誤解を指摘すれば、’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と弁解する。

見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることができない内容は、’嘘’ である。誰しも、見て来たような嘘つきにはなりたくないから、自分自身の非現実 (考え) の内容を語ることをしない。そうこうするうちに思考停止が身に付いてくる。それで、自分個人の内容は、想定外になる。

 

>でもそれなら、『世間』は広くなくてはいけない。

 

そうですね。いけないですね。自分自身の考えを広く伝える必要がありますね。

 

>そうでなければ、他人とのつながりをもたない孤独な『個人』が、自分のことだけを考える世の中になってしまう。>というより、いまもすでにそうなっている気がする。

 

そうですね。兎角、利己主義になりますね。

 

> 道端の迷子に声をかけることすらためらい、具合が悪くても電車で席を譲ってほしいと言えず、子どもが泣いていてもそ知らぬ顔をする。

 

そうですね。孤立無援の世の中ですね。

 

> 『世間』という舞台がオープンならば、身の回りの出来事はすべて「自分と関係のあること」だ。

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。意思を示さなければ、傍観者となる。わが国は、世界の中にあって、世界には属していない。

日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳の中には未来時制は無く、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がないので、仕方がない。無為無策でいる。兎角、この世は無責任。

 

> 迷子がいたらすぐに声をかけるし、「席を譲ってもらえませんか」と言えるし、泣いている子どもを一緒にあやしたりするだろう。

 

本当に、人は、助け合って生きるものですね。

 

>でも現代日本(少なくともわたしが知っている範囲)では、そんな関わりあいさえむずかしくなってしまった。>それは、さみしいことだと思う。

 

そうですね。実にさみしいことですね。

 

> 多様性を認めよう、人はみんなちがうのだから尊重しよう。>そんなことを言っているのに、そこには人とのつながりがない。

 

‘考える人’ になろう。無哲学・能天気でいるのは、良くないですね。考えがなければ、人とつながる手段がない。

 

> 個人が重視され、自分で人生を切り開く力が求められ始めた現代だからこそ、他人とのつながりをより大切にしていく必要があるんじゃないかなぁなんて思っている。 

 

そうですね。自己実現を盛んにして、他人とつながろう。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を十分に理解して自己の意思を表す手段を獲得しよう。さすれば、自己の意見に対する理解が広く得られます。未来社会の建設にも協力者が得られ明るい未来が到来します。

 

 

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閲覧数633 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/06/26 12:03
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