>お金儲けと経営は違う、と言う世界ではお金を儲けても社長とは限りません。 >経営を芸術や技術に変えたら分かりやすいでしょうか?? >どんなにお金を持っていても、才能がなければ芸術家にも技術者にもなれません。>教師も大工も何でもそうなんです。
そうですね。
>お金と役割は全く違うものなのですが、経営と名前がついた瞬間、お金を稼いだ人となってしまいます。
お金を稼ぐように経営することが必要ですね。 経営はお金儲けの手段ですね。
>この辺が職に貴賎を生み出し、草鞋を編むのは損だ、籠を担ぐのは損だと言う意識を生み出します。
下の者ほど割が悪いですね。3K (きつい・汚い・危険) の仕事は下の者がやることになる。
>誰もかれもが「籠に乗る」と言い出し始めるのです。
彼らは ‘百姓の分際にも拘わらず’ ですね。
>お金を中心とした世界へ突入し、人類は多様性を崩壊さえ、人間の繋がりや支え合いの喜びを奪い、画一化、単純化の道をましぐらに進み、全ては「お金」となったのです。 >お分かりでしょうか?????
お金万能のように聞こえますね。お金を得て自由になった人もいるはずですね。
>人間の欲望、嫉妬と言うものです。
欲望・嫉妬はお金とは直接関係が無いでしようね。お金を持たないアニマルたちにも欲望、嫉妬は見られますから。
>本来、職業は「利他主義」「私が世の支えとなる」と言う理念から職業を選び、自分で社会の中での役割を選んで生きてきます。
助け合いですね。個人の趣味による場合もありますね。
>お金持ちになるから医者でもなく、お金持ちになるからスポーツ選手じゃないんです。>それが誰の為に働くのか?と言う大きなテーマの多様性なのです。
だれもが ‘得手に帆を揚げる’ 生活ができると良いですね。アリの社会は人間的ではありませんね。
>テーマの最初に書きましたが、誰の為に働くのか? >その答えは無限にある。>しかし現実は「お金の為」と言う画一化に近い。
お金があれば、個人的な趣味の生活も可能になりますね。
>誰もが「カゴに乗る人」じゃないと許せない、どうして私が草鞋を編まなきゃいけない?となっている。
個人的な趣味の生活と仕事の両立は難しいですね。
>欲望、嫉妬に火が付いて、どんどん他社との比較が始まり、競争が始まり、資本主義下に於いて車のスピードは加速していった。 >今は殆どの物が「お金」で手に入ります。
そうですね。欲望の半分程度のものはお金の力で手に入れることができるようですね。
>待遇も教育も、地位や名誉や、マナーや常識までも「お金」さえあれば、どうにでもできる事が多い世の中です。>正に資本主義の集大成といえるでしょう。
お金は我々の自由を増やしましたね。
>大勢が並んで待っている時、高額を払えば特別に先頭へ導かれる。>試験に落ちても、多額を寄付すれば入学できる事もある。>高額さえ払えば、危険な命も助かる事が多い。>全ては「お金」で解決できるように世の中の仕組みを作り上げる事こそが資本主義のシステムなのです。
お金は目的そのものにはなれませんが、目的達成の手段として大いに役立ちますね。それを間違えてお金そのものを目的とする人は吝嗇家として嫌われています。
>基準は全て「お金」なのです。
お金持ちの基準は、世界の高額所得者として毎年公表されていますね。
>しかし昔の日本は違いました。>「お金」の前に「理念」でした「志」でした。
それは義理でしょうね。無哲学・能天気の日本人には、’義理’ が行動規範でしたからね。義理とは ‘序列関係から生じる義務’ の事で、序列社会の秩序は義理によって維持されていましたね。人々は、’義理がすたればこの世は闇だ’ と考えていました。四十七士のような義理堅い浪人も現れました。
>武士は食わねど高楊枝、ボロは着てても心は錦、お金にひれ伏したら人間終わりだ、そう言った思考が普通に言われておりました。
お金による自由はあまり世の中にありませんでしたからね。
>この時の日本では「お金」の為に働いていた人たちは、それなりの人数しかいなかったでしょう。
そうですね。
>様々な思いの中で私は「〇〇のため」に働いていると、人生に多様性があったと思います。
個人の社会に対する直接的の働きかけでしたね。
>勿論人間ですから、他者との比較で「お金」があればなぁと思う時もあったでしょうが、心の基準値は「お金」ではなく「ボロは着てても心は錦」と幸福でいられた社会だったのです。
お金によって買える自由はあまりありませんでしたからね。
>しかし現代は画一化が進み、殆どの人たちは「お金」の為に働くように社会は変化しました。
お金があると自由が買えますからね。目的も無く金稼ぎばかりに専念すると、吝嗇家になりますね。
>リンク [珖貴]
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