2021年11月15日(月) 

 

>次代の活力源は?  >372375         ニッポンの「治療」は始まっている  >大嶋洋一 ( 59 電気・情報設計 )           21/11/14 PM08

>先日、地下鉄内での放火・殺傷事件がありましたが、日本の安全神話が崩壊しつつある。 

 

そうですね。わが国は、以前は ‘水と安全はタダ’ の国でしたがね。   

 

>以下、コモンの再生 内田樹著 文芸春秋 より引用

>*********************************************************************

>安全文化が危険水域に  > 新幹線は本当に危険な話でしたね。 >博多を出て、小倉で異音異臭がして、岡山で保安担当者が乗り込んできて、停車して点検するように言ったのに、総合指令所はそれを無視して、結局名古屋まで走り続けた。

>この事例はJRの安全文化がかなり危険水域に入っていることを示していると思います。 > 新幹線を停めることによって生じるデメリットというのは、ダイヤが乱れるとか特急料金を払い戻すとか代替交通機関を用意するとか、いずれにせよ予測可能·計測可能な被害です。 >でも、もし危険を知りながら走らせて事故を起こした場合、脱線したり、車両が壊れたり、線路が壊れたり、死傷者が出た場合、それによって生じる損害は桁外れの、予測不能の規模のものになる。

 

そうですね。原発事故のメルトダウンのようなものですね。   

 

>1964年から53年間無事故という新幹線の安全神話そのものが崩れる。 >事故が起きたときに失うものの大きさを考えたら、停車して点検するくらいのことから生じるロスなど比較にならないほど軽微なものです。 >でも、なぜか現場ではその比較ができなかった。 >目先のダイヤ通りの運行を優先して、JRが破滅するくらいのリスクを見逃した。 >リスク管理がどうこう言う以前に、ふつうに「算盤」を弾いたら子どもでも下せる判断をJRができなくなっているということに僕は危機的兆候を感じます。

 

そうですね。危機管理が疎かな人たちですね。事故を予測して安全サイドに舵を切ること (fail-safe) を知らない人たちですね。      

 

> 上下水道とか交通網とか通信網とかの基本的な社会的インフラはとにかく安定的に運転することが最優先します。 >採算とか効率とかは基礎的社会的インフラの管理運営においては副次的なことに過ぎません。 >とにかく安定的に機能しなくなったらたいへんな被害が生じるわけですから。

 

そうですね。安全第一ですね。  

 

> にもかかわらず、今回の新幹線トラブルでは目先の定時運行をシステムそのものの保全より優先させた。 >このような「目先の損得にこだわって巨大なリスクを看過する」という傾向が今、日本中の組織を侵しています。

 

そうですね。日本人は、現実・目先ばかりにとらわれる人たちですね。常に ‘やってみなければ結果は分からない’ と考えている。思慮がない。思慮深い人が見当たらない。      

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、日本人は、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。そして、付和雷同する。   

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており万事受け身で対処するのが基本姿勢となっている。いわゆる指示待ち人間ですね。     

 

> 日産もスバルも三菱マテリアルも神戸製鋼も、目先の納期やコスト削減にこだわって、営々として築き上げてきたブランド·イメージに取り返しのつかない傷をつけてしまいました。

 

そうですね。信頼できない人たちばかりですね。       

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>東芝は上場廃止になると騒がれていたし、神戸製鋼もクライアントの信頼を回復しなければならない。 >守るべき規則を守らず、コストを惜しんだ結果、企業本体が経営危機に陥るというのは、どう考えても「間尺に合わない」話です。

 

そうですね。政治家の太平洋戦争のようなものですね。  

 

>でも、今時の経営者たちはこの「間尺に合わない」という考え方そのものが苦手なようです。  

 

そうですね。思慮のない人たちですからね。    

 

>「尺間というのは要するに「時間意識」のことです。 >どれくらいのタイムスパンでことの損得を計算するか、その長短で適否の判断は変わります。 >10時間で測る人と10年で測る人では判断が逆転することもある。 >余命いくばくもない人が不健康な生活をしているのを見て「そんなことを続けていると早死にするよ」と説教してもさっぱり応えない。 >それは「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」という判断の方に理があるからです。 > 日本の組織は今それに近い感じです。

 

そうですね。日本人には未来の世界がない。目の前に現れない (非現実・考え) 内容を脳裏に保持することができない。      

 

>「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」という気分に覆われて、長期的な利害について思量する想像力を失ってしまった。

 

そうですね。‘宵越しの金は持たぬ’ 気風が昔から永続していますね。  

 

>それはたぶんさまざまな組織の人たちが「余命いくばくもない」ということを無意識のうちに感じ取っているからだと思います。

 

日本人には世界観がありませんからね。過去の事を思い起こし、未来の事を設定する能力に欠けていますね。洞察力のない思考停止の人ですね。ナウな感じのする人たちばかりですね。        

 

>「ありもの」をていねいに  > 国力の消長というのはあらゆる国の宿命ですから、それは仕方がないんです。 >日本の場合は超少子化・高齢化が衰運の主因ですから、誰のせいでもない。 

 

日本人なりたい外国人は大勢居ますけれどもね。

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

> でも、そのときに「落ち目だ」ということを認めないで「絶好調」だと言い立てるのはよした方がいい。

 

そうですね。‘日本は必ず勝つ’ と言い張るような戦時中の日本人のようなものですね。私はそれを聞いて子供ながらにオトナはバカな人たちだと思っていた。      

 

>病気や怪我のときはどこがどう不具合なのかを非情緒的・客観的に報告するところからしか治療は始まりません。 >病気や怪我のときに「絶好調です」と言い張っ て、健康なときと同じ生活をしていたら命に関わります。 >でも、それと同じことが今の日本には起きている。 

 

そうですね。日本人は精神主義が好きですからね。その上、感情的ですね。ドライに割り切ることが嫌いな人たちですね。       

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)    

 

> だから、「落ち目だ」と気がついた人たちから違う生き方を探し始めています。 >それを 「悲観主義」だとか「衰退宿命論」だとか非難する人がいますけれど、違いますよ。 >体調が悪いときには「体調が悪い」ということを認めて、横になって身体を休めて、栄養を摂って、治療法を探すしかないんです。 >「違う生き方」は傷んだ身体に対する治療であり、 気遣いなんです。 >若い人たちの地方移住や帰農や就活からの撤収はそういう流れだと思います。

 

考えは個人個人で違いますからね。ご唱和の時代は終わりつつありますね。   

 

>(中略)> でも、「落ち目」だからと言って、少しも絶望的になる必要はありません。>落ち目の局面ではそれに相応しい「後退戦」の戦い方があります。 >「ありもの」をていねいに使い延ばして、フェアな再分配の仕組みを作れば、まだまだ日本は世界有数の「暮らしやすい国」であり続けることができます。

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治音痴にならないために必要なことである。  

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。そした、この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' になる。だから、無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>以上、引用終わり   

 

 

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閲覧数226 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/11/15 08:12
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