2021年11月25日(木) 

 

 

>日本の教育の問題点はどこにあるのか >2020年9月2日 2021年2月25日てんゆう てんゆう

(略)

>皆さんは「日本の教育は問題点が山積みだ」と言われているのはご存知でしょうか?  

 

それは皆さん知っているでしょうね。   

 

>グローバル化が進み、ITがどんどん発展している今の時代でも、実は日本の教育システムは約150年もの間ほぼ変化がありません。>日本は保守的な国で、世界を例にとってみても本当に微々たる変化しかしていないので、どんどん遅れをとっている状態なのです。

 

何事もお変わりのないことは良いことです。日本人の口癖ですね。      

 

>そこで今回の記事では、 >✅日本の教育の問題点はどこにあるのか >✅日本の教育と海外の教育の違い >✅日本の教育の問題点を改善するには >に焦点を当てて私の意見をまとめました。 >日本の学校教育システムなどに疑問を抱いている方、海外へ飛び出して世界を舞台に活躍したい、世界で学びたいと考えている方は是非読んでみてください。

(略)

>日本の教育の問題点はどこにあるのか? >冒頭にも書きましたが、日本の教育は150年もの間、変化をしていないというのは本当のようです。

 

我々日本人は型に嵌るのが得意ですからね。    

 

>日本は戦前戦後、海外のさまざまな文化を取り入れて発展を遂げてきました。>そんな中でも150年も変わらない日本の教育システムがあります。 

 

そうですね。型に嵌るのが日本人の修行ですからね。    

 

>日本の教育の問題点その①「集団&受け身スタイル」   

>日本では集団教育や一方的な講義スタイルの授業が特徴的です。

>先生の授業をクラスの生徒全員で聞き、学期末にテストを実施し、その結果で成績を決めるというスタンスです。  

 

そうですね。わが国の教育はいわゆる ‘物知り’ を作る教育ですね。   

 

>諸外国の教育方法とは全く異なる、常に生徒が受け身の姿勢となる教育です。  

 

日本人には意思がない。だから受け身があって自発がない。   

 

>授業は生徒が分からなくても勝手に進み、反対に分かっていても飛ばすことはできません。  

 

先生も生徒も型に嵌っていますね。   

 

>子供一人一人の能力を伸ばすよりも集団で足並みを揃えることに重点が置かれています。  

 

一糸乱れぬ集団作業が美しいとされています。人の振り見て我がふり直せですね。   

 

>このような集団&受け身スタイルの教育では個人個人の得意な分野や眠っている才能を開花させたり伸ばしたりすることが難しいと思われます。

 

そうですね。

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

>日本の教育の問題点その②「偏差値重視の勉強」  >「入試に合格するため」または「偏差値が高い学校に入るため」の教育がまさしく日本スタイルです。 >偏差値や有名大学のブランドばかりを気にして、そこが最終目標のゴールと認識しており、そのゴールを目指すための勉強が日本では実施されています。>日本の親御さんや先生の多くは子供の志望校を選ぶ時も、偏差値を基準として判断し、偏差値重視で決定します。 

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>その子供の個性を見るのではなく、偏差値を基準として学校選びをするという現状です。 >試験で成績や点数の高かった生徒が「優秀なすばらしい生徒」と考えられているため、試験で高い点数を取るための教育を保護者も求めているのです。 >このような教育スタイルでは子供の個性が重視されず、試験のため、偏差値のための勉強という、本来の「自ら学ぶ」という勉強の姿勢からはかけ離れているという意見もあります。 

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

>日本の教育の問題点その③「暗記学習に重点」  >日本の教育では「記憶する学習」=「暗記学習」に重点を置いているため、勉強内容は暗記することがほとんどで、子供が自ら考えたり疑問に思ったり、提案したりする能力が伸びないと言われています。>暗記する項目の背景や経緯などはあまり触れることは無く、ただそれを大量に覚えれば良いというスタンスです。  

 

日本人は思考を停止している。だから、知識を増やすためには暗記しかない。かくして受け売り専門の人となる。    

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

  

>英語に関しても同じことが言えて、スピーキングやリスニングよりも文法から学ぶことに重点を置いています。 >日本史についても同じです。「〇年〇月に○○の乱」が起こったという事実を覚えることが先行し、その背景や何故そのような事になったのか、それで日本はどう変わったのか、などはほとんど勉強しません。 >日本の教育ではテストの点数を上げることが一番重要とされているので、テストのために全て丸暗記してテストに備えるという学習方法なのです。

>これではテストが終われば忘れてしまうことが多く、社会人になった時には学校で学習した事はほとんど覚えていない(役に立たない)という結果になってしまうのです。 

 

残念ながら日本人の勉強は学問につながっていませんね。単なる処世術 (損得勘定) に過ぎないのです。人間序列形成の一過程に過ぎないのです。      

 

>日本の教育と海外の教育の違い  >海外の教育スタイルは、日本の教育とは大きく異なります。 >1つ例を言えば、アメリカなどでは日本には存在しない「飛び級」ができる制度があったりしますよね。 

 

年功序列の社会に飛び級は歓迎されませんね。それはずるい処世術になります。        

 

>それぞれの国の教育スタイルは背景に宗教や文化などが大きく影響しており、日本が丸ごとマネをすることが不可能な部分もありますが、参考になる部分などはたくさんあります。  

 

外国には猿真似の通用しない風習が多くありますね。     

 

>参加型の授業形式  >授業形式で言うと、海外では日本と違い「生徒参加型の授業」が一般的です。 >小学生でも全員の前に一人で立ち自分の意見をプレゼンテーションして、その後クラスメイトとディスカッションします。 >そうやって自ら発信する力をつけ、自分という人物に自信を持つことができるのです。 >海外では日本のように先生が前に立ってずっと話をしているのをノートにとるという一方通行的な授業スタイルではありません。 >日本のような授業スタイルでは子供が自ら発信する力が全く養えませんし、意見交換もできません。 >その子がこの内容についてどう思っているのか、この内容の疑問点はどこなのか、みんなはどう感じているか、先生もそれを把握できないまま流れるように授業だけが進んでしまうことが懸念されます。 

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

>「不得意な事」よりも「得意な事」に注目する教育  >誰にでも得意、不得意はあります。>子供も算数の掛け算は苦手だけれど、図形問題は得意など・・ありますよね?  

 

得意も不得意も個性の中にありますね。   

 

>海外では「○○が出来ていない」ということよりも「この子は○○が得意で優れている」ということに注目します。 >出来ない事よりも、得意な優れた能力をさらに伸ばすことに注視します。 >日本とは少し違うと思いませんか? >日本では「出来ない、苦手なこと」をマイナス評価される傾向がありますよね。

 

日本人は減点法ですね。揚げ足取りに専念していますね。他人を潰すことにより自分の相対的な順位が上がるという計算ですね。          

 

>マイナス評価されるのを避けるために勉強します。 

 

苦手なことの学習は能率が悪いですね。得手に帆を揚げる学習は楽しくて能率が上がります。      

 

>不得意で苦手なことも、全く出来ないでいると困ることもあるかもしれませんが、それよりも海外のようにその子の得意なことをさらに伸ばしていく、やりたいことをさらに追及していく方が良いと思いませんか?  

 

そうですね。その方向が正しいですね。   

 

>個性を生かすことに重きを置いた教育をすることが海外では実施されています。

 

日本人は没個性ですからね。型に嵌ることが大切です。    

 

>【まとめ】日本の教育の問題点を改善するには?   >日本の教育はこれからどう変化していくべきなのでしょうか。 >センター試験が廃止され、小学校では英語が科目として導入されるなど、日本の教育も少しずつ変わりつつあります。 >ですが、偏差値重視の教育制度や暗記型学習、受け身スタイルの授業、将来使えない英語の授業など、まだまだ改善すべきことはたくさんあるように感じます。 >一流の大学に行き、一流企業に就職すれば一生安泰という固定概念は問題です。

 

そうですね。日本人の活動には儀式 (作法) があって教義 (教え) がない。だから、儀式に囚われて変革ができない。       

 

>一流大学を出て一流企業に勤めたとしても、その一流企業は突然、破綻してしまうかもしれないという時代なのです。 >実際に「2020世界の会社時価総額ランキングTOP50では日本の企業は僅か1社(トヨタ自動車)しか入っていません。 >もはやこれからの時代、日本だけを視野に入れていてはいけないような気がします。

 

そうですね。我々日本人は井の中の蛙ではいられませんね。   

 

>海外の教育制度を受け入れ、それを日本スタイルに変えて取り入れることが重要なのではないでしょうか。   

 

そうですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>海外の教育制度のように、子供が「自ら学習したい」という意欲を高める指導の方法にして、個性を生かした教育を重視する。 >子供たちの多様性を理解し、それぞれ一人一人の可能性を伸ばす教育がこれからは必要なのではないかと私は感じます。 

 

日本人には個人主義 (individualism) の理解が必要ですね。    

 

>航空業界で働く夢をかなえてみませんか?

 (略)

>この記事を書いた人 >てんゆう

>てんゆう >世界中を飛びに飛び回っていた元添乗員の関西人「てんゆう」です。  >学生時代に1年の海外留学で14㎏太った経験あり。 >海外の情報や留学の悩み・英語学習のことなど何でも私にお任せあれ。>エスニック大好きで近年はアジアにどっぷりハマリ中。      

 

結構な暮らしぶりですね。    

 

 

 

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閲覧数199 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/11/25 05:00
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