2025年06月09日(月) 

 

>ニューズウィーク日本版   >「白鵬は、もう相撲に関わらないほうがいい」...モンゴル人力士への「差別」が他人事ではない理由とは?   >楊海英 ユーラシアウオッチ の意見・   >4時間・  

><品格、伝統、神事...? 偉大な成績を残しながら、相撲協会を去る名横綱・白鵬よ、モンゴルの広い草原に帰れ>   

>白鵬が日本相撲協会を退職するとの報に接し、もう相撲は見ないことに決めた。   

>実は2010年春に横綱朝青龍が引退してから、私は相撲と距離を取るようになった。   

>それまでは日本にいようと、モンゴル国で調査していようと、夕方5時前になるとみんなと一緒にどこかでテレビ中継に夢中になっていた。   

>その時間になると、首都ウランバートルでは車の流れも止まった。   

>モンゴル出身力士のしこ名も、草原の遊牧民は私よりも詳しく把握していた。   

>朝青龍不在となった後も、白鵬が先頭に立って奮闘しているのを見て、ひそかに応援の拍手を送っていた。   

>19年4月の静岡場所では直接、けがや批判に苦しむ姿も目撃した。   

>私も私の分野、つまり学界で朝青龍や白鵬と同じような経験をしてきた。   

>白鵬の国の南にある中国内モンゴル自治区から私が日本に留学したのは、天安門事件が起きた1989年春。   

>博士の学位を94年に取得し、日本の学界への「幕入り」を果たした。   

>その後、モンゴル人の視点で中国政府に批判的な著作を09年に出版し、10年にある文学賞を受賞した。   

>しかし「出る杭は打たれる」かのごとく、所属する学会の複数の友人からの温かい祝意と同時に、「旧帝大への道を閉ざされた」と言われた。   

>「学界の大関」になれても、「横綱」にはなれないということだ。   

>「学界の横綱」になるのが私の夢ではなかった。   

>しかし、研究費や発信力などさまざまな条件を考えれば、当然旧帝大系の大学には行きたかったし、そのためのアプローチもした。   

>旧帝大の公募人事にも応じたが、例外なく落とされた。   

>研究業績や実力うんぬんは建前で、実際は人脈や学閥がものをいう世界である。   

 

そうですね。残念な世界ですね。   

 

>「賞を取って有名になっただけでなく、次から次へと著作を出版する。   

>遠慮なく他人の不正を批判する人をどこの大学も採用しない」と、学会での「師匠筋」にも言われた。   

 

そうですね。日本人には批判精神 (critical thinking ) が無いですからね。   

 

>そこから、「学界の横綱」を諦めた私は、地方の国立大学で教育と研究、それに大学行政に専念するようになった。   

>日本人の「素朴な嫉妬心」   

>日本で私が自身の国際経験から発言すると、周りの日本人の顰蹙(ひんしゅく)を買うことが多い。   

>しかし同じことを日本人が言えば、その意見は採用される。   

>非日本人の私の言い方は当然、非日本的で、直截(ちょくせつ)的だったようである。   

>「日本的な会議のやり方も分かっていない」「落としどころを想定した発言になっていない」とよく批判された。   

 

これは高文脈文化の世界ですね。   

 

>そして、単に意見をぶつけ合っていると私が思っても、周りの日本人はいつの間にか団結し合って、「反外人」の陣営を形成する。   

 

外人は他所者ですね。日本人は非国民に成りたくありませんね。   

 

>私はアカデミックな世界は民族・国籍・人種とは無関係で議論し合えると信じていたのに、周りには日本人が日本人を守る壁ができていた。   

 

これは日本人の島国根性の表れですね。   

 

>日本人は制度や規定だけでなく、伝統や「根回し」といった無形の武器で私の周りに塹壕を掘っていた。   

 

あなたは村八分にされたのですね。   

 

>白鵬と朝青龍に対する角界と日本社会の接し方は、私の経験と完全に一致する。   

>白鵬と朝青龍、あるいは日馬富士も含めて、彼らに対する批判は大体、日本人力士を圧倒していた頃に高まる。   

>白鵬の場合は歴代最多の優勝を決め、前人未到の記録を創出しようとした際に、あの手この手で何とかして倒そうと、声が上がった。   

>いわく、品格に問題がある、行動が横綱として不適切だ、日本の伝統を無視している......。   

>しかし、この域を超えた批判はない。   

 

そうですね。日本人には批判精神 (critical thinking ) が無いですからね。  

 

現実 (事実) は頭の外にあり、非現実 (考え・哲学) は頭の中にある。日本人にも現実だけがあって、非現実がない。これは日本語の文法には時制 (tense) が無いためである。   

日本人は思考を停止しているので、無哲学・能天気の人である。   

現実があって非現実がないと、宗教に儀式があって、教義がない。   

日本人の生活は、生まれた時には宮参りをして、結婚式はキリスト教会で行う。葬儀は葬式仏式で済ませばよい。これで過ごす事ができれば万事万々歳である。

内容を考えなければ、矛盾ということも気にならない。 だから、思考を停止している日本人には理屈にも価値がない。     

思考を停止しているので考えが無いのであるから、考えを改めるということも上手く行かない。  

日本人は内容 (非現実) が無いだけに余計に形式 (現実) には拘る。それで改革運動の妨げになることが多い。結果的に日本人は守旧派の人達になっている。   

現実に過度に拘る結果、猿真似・後追いは得意であるが、創造力に乏しい。猿真似・後追いの優劣の争いは激しく、日本人の人間序列形成の判定に使われている。       

 

>品格は道徳観念の1つで、民族と地域によって異なるし、同じ民族でも時代によって千差万別だ。   

>行動となるとなおさらで、「日本的伝統」といっても、相撲自体がユーラシア大陸に淵源する歴史的競技だとの見方もある。   

>また、「相撲は神事」だとも主張されるが、神事なら金銭的な営為は禁止すべきで、現代国家が定める政教分離の原則とも抵触する可能性がある。   

>つまり、「神事」の強調は、他国や他民族出身者に特定の宗教への服従を強制しているきらいがある。   

 

それは序列的権威ですね。日本は序列社会ですからね。   

 

>品格と伝統を用いた批判は嫉妬の域を超えたものではない。   

>日本人が作った記録を「外人」に破られたくないだけの、素朴な嫉妬心にすぎない。   

 

そうですね。   

 

>もう日本を目指さない   

>日本メディアの偏向報道も目の当たりにした。   

>07年夏、けがのため母国で療養中の朝青龍の家に、世界的に知られている日本人サッカー選手が訪れた。   

>モンゴル国でのサッカー文化拡大と、貧困児童へのチャリティーも兼ねた試合への出場を、サッカー選手は朝青龍に要請した。   

>義理人情と友人との付き合いを大切にする朝青龍は、少しだけピッチに立った。   

>すると、日本メディアは「モンゴルでサッカー試合に出る朝青龍は仮病」とバッシングした。   

>私が憤怒したのは日本メディアではなく、そのサッカー選手が公式の場で明確に否定せず、真相を語ろうとしなかったことである。   

 

それは残念なことですね。   

 

>肝心なときに、日本人は日本人を守るという好例だ。   

 

そうですね。義理と人情の世の中ですね。      

 

>「龍鵬時代」は永遠に去った。   

>モンゴル人はもう日本の相撲を見なくなった。   

>日本の角界入りを目指すモンゴル人少年も少数ながらいるが、これからは来なくなる。   

>日本に行って差別されたくないからだ。   

 

差別は日本人の温かさによるものですかね。   

 

>身体的に決して突出していなかった少年が日本に来て、第69代横綱を務めた。   

>角界を去って別の形で「世界の相撲」として日本に関わるとの夢物語を抱いているようだが、それもやめたほうがいい。   

>「朝青龍は日本的伝統に我慢しなかったから、成功した。   

>白鵬は日本的しきたりを守ろうとしたから、成功した」   

>これは一時、モンゴルではやった両横綱への評価だが、どちらも完全な成功ではなかったことが証明された。   

 

そうですね。我が国に人種差別が在りますからね。失敗は成功の基です。      

 

>日本的伝統を守ったか否かというより、日本に国際化を許容する器がなかったからだ。   

 

そうですね。我が国民の島国根治は国際化を許しませんね。   

 

>朝青龍のように広大な草原の懐に帰って、ゆっくりと休もう。   

>「白鵬」を歴史に残して、「草原のダワー(ダワーは彼のモンゴル語の愛称だ)」に戻ってほしい。   

 

いやいや、白鵬にはぜひわが国の国際化の礎になってもらいたいです。   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望を与えることがない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数20 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/06/09 18:21
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