2023年02月25日(土) 

 

>田原総一朗氏、「朝生」でたかまつななの意見に断…「違う!野党が弱すぎるんだ」   >報知新聞社 によるストーリー • 7 時間前   

> 元NHK職員、お笑いタレントで時事YouTuber、「お笑いジャーナリスト」のたかまつななが24日深夜放送のテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」(深夜1時25分)に生出演した。

> この日は「激論!ド~する?!原発とエネルギー危機」をテーマに世界的エネルギー問題、岸田政権の“原発政策”の転換などを出演者が議論した。   

> その中で政府が目指す原発の60年超運転に関連し、原子力規制委員会の存在意義が話題となった。   

>出演者が様々な意見を述べるなかでたかまつは「私は国民にも責任があるなと思うんですね」と切り出し昨年、自身が英国、スウェーデンでの現地取材経験から「若い人たちのフライデー・フォー・フューチャーとかエクスティンクション・レベリオンとか気候変動のデモをしているのをグレタ(トゥーンベリ)さんとかも取材させてもらったんですけど、若い人が参加して涙しているんです」などと明かした。

> 続けて「何で涙しているかというと、未来の子どもたちにこのままだと温暖化が進んで困るですとか、気候難民の人がいますでにいて、その人たちが従来通りの生活ができない、困っている。   

>そういうふうに我が事として捉えられている。   

>私たちは、そこまで我がこととして捉えているかというと、まだまだそうじゃない。   

>エネルギーの供給源が足りないから原発にしようかっていうようなレベルにしか至っていないと思うので」と指摘した。   

> その上で「私は例えば、最終処分場が決まっているフィランドとかスウェーデンっていうのは、私も昨年スウェーデンに取材に行ったんですけど、熟議型の民主主義がとても進んでいるんです。   

>投票率が高くて…」と明かすと、司会でジャーナリストの田原総一朗氏が「何で日本は熟議型の民主主義が進まないんだと思う?」と尋ねた。   

 

日本人は議論に慣れていないからでしょう。   

 

> これにたかまつは「それは、私は教育が足りないんだと思う」と答えると田原氏は「違う!野党が弱すぎるんだよ」と断じた。   

 

野党も与党も議論は弱い同士でしょうね。弱い同士が熟議を放り出して数の勝負をしているのが現実でしょう。       

 

>これにたかまつは「でも、教育も足りないです…」と繰り返すと番組はCMに入った。   .

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。しかし、日本人の場合は思考を停止していて、無哲学・能天気であるためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは熟議は起こらず冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになるので全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には現実ばかりで非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定様式だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。日本人のように現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' になる。そこで、不完全な現実に囲まれながら無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

 

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

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閲覧数224 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/02/25 17:27
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