>現代ビジネス >日本で「いじめ」がなくならない「本当の理由」… 子どもから自由を奪う「学校」という病 >現代新書編集部によるストーリー >・5時間 >いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。 >日本という国や日本人の謎や難題に迫る新書『日本の死角』が8刷とヒット中、普段本を読まない人も「意外と知らなかった日本の論点・視点」を知るべく、読みはじめている。 >「学校」という病 >最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。 >なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。 >話題書『日本の死角』では、「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」という論考でそのテーマを深く掘り下げている。 >一部を紹介したい。 >*** >最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。 >わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。 >いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。 >先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。
そうですね。学校は一種の真空地帯ですね。
>社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。 >学校とはどのようなところか。 >日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。 >学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。 >これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。 >生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
そうですね。或る種の気分・雰囲気・感情を追求するところですね。
>たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。 >「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」
‘〇〇らしい’ が曲者ですね。因縁 (言いがかり) ですね。
>「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。 >どうしてくれるんだ」というわけだ。
そうですね。勝手な思い込みですね。
>そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。 >この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人ひとりの人間は重要ではない。 >人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
自分勝手な気分・雰囲気・感情の追及ですね。
>多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。 >その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。 >私たちはそれをよく目にする。 >ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。 >こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
そうですね。
>こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。 >学校では自由が許されない >さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。 >学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。 >学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。 >何があたりまえであるかも変わる。 >こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。 >この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。 >だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみに、私たちはなかなか気づくことができない。
そうですね。 言論の自由を封じていると理不尽 (言いがかり) がはびこり手が付けられない。学校では「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」といういいがかりをつけられて、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。 こういったことは、言論の自由を封じられた学校以外の集団でも起こる。たとえば、宗教教団であるオウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。これも言論の自由を封じると理不尽ないいがかりをつけられる例である。 また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。 これも言論の自由を封じると理不尽がはびこる例である。 アッケラカンとした世界の中でドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。遠目が効かず ‘もやもやした状態’ が危険ですね。
>しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。 >市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。
そうですね。
>たとえば、どんな服を着るかの自由がない。 >制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。 >どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。 >社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
軍隊のようなものですね。
>逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。
教師に指導力のたまものですね。
>センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。 >正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。 >生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。 >こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。
そうですね。これでは学校教育は社会教育になりませんね。 教師による気分・雰囲気・感情による指導をやめさせるべきですね。 リーズン (理性・理由・適当) による教育を進めるべきですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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