>産経新聞 >週刊誌を一刀両断、20年で1000回到達 花田紀凱氏「新聞・テレビに異議申し立てを」 1日・ >週刊誌の最新号を一刀両断する産経新聞読書面のコラム「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」が今月3日で連載1000回を迎えた。 >平成17年4月の連載開始から約20年。 >花田紀凱氏(82)は前兵庫県知事パワハラ疑惑などを例に挙げ、「今の週刊誌は時として新聞と同じことをやっている」と苦言を呈する。 >同じではダメ >「メジャーな新聞・テレビに対し、週刊誌はマイナー。 >新聞・テレビ報道の大きな流れに異議申し立てをするのが週刊誌の役割、存在意義だが、それがない」
残念なことですね。
>斎藤元彦前兵庫県知事のパワハラ疑惑を巡っては、特産品など贈答品に関する「おねだり」疑惑をそろって見出しにした「週刊文春」「週刊新潮」に対し、7月28日付で「水に落ちた犬を一斉にたたくだけなら週刊誌の存在価値はあるまい」と書いた。 >「(斎藤さんが集中砲火を浴びたら)もっと斎藤さんに近寄って、あるいは周りを取材するとか。 >人間関係を取材してほしい。
それはやらないでしょうね。日本人の書き物は只の歌詠みですから。
>(自民党の派閥パーティー収入の)不記載問題も『裏金』『裏金』と、ただ追随するだけ」。
そうですね。付和雷同ですからね。
>世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題も「新聞が一斉に同じような論調で批判していて、週刊誌も同じように取り上げる」と手厳しい。
‘赤信号 皆で渡れば怖くない’ ですかね。現実に関する正解は只の一通りしかありませんからね。
>旧統一教会を巡っては、安倍晋三元首相銃撃事件の起きた令和4年7月以降、コラムで28回にわたって言及。 >5年2月11日付では「事件後、新聞、テレビ、そして週刊誌までもが、いっせいに統一教会叩きに狂奔、銃撃そのものに関してはほとんど追及してこなかった」とつづった。 >自身も「週刊文春」編集長当時、統一教会批判キャンペーンを手がけていたが、「当時は合同結婚式が問題になっていた。 >『花田はあの時は批判していたくせに、今は擁護するのか』と言われるが、統一教会もいろんな無茶をしたことがある。 >コンプライアンス宣言(平成21年)以降は返還請求が激減しています」と説明。 >今の週刊誌に対しては「昔の事例を問題にして今の姿を見ないのはおかしいと言ってほしい」と注文を付ける。 >週刊誌が株を上げたのが、旧ジャニーズ事務所の故ジャニー喜多川氏による性加害問題だ。 >11年、この問題を「週刊文春」が報じ、事務所から名誉毀損で訴えられたが、東京高裁が15年、事実を認定した。 >だが新聞、テレビは英BBC放送が昨年3月に取り上げるまで、ほとんど報じてこなかった。
そうですね。日本人は性を問題にすることは嫌いですね。日本人は農耕民であって、牧畜民ではないからでしょう。
>「『文春』は僕(が編集長だった時期)の後です。 >よくやった。 >でも周りが付いてこなかった。
そうですね。英国と日本の文化の違いでしょうね。
>世の中の空気が変わってきたから今取り上げているのであって、その頃はひどいことという認識がわれわれにもなかった。 >僕らもやっぱりジャニーズ事務所に世話になったんです」と自戒も。 >書き出しが命 >コラムは毎回、読者の共感を得るような話題で書き始めている。 >例えば、候補者が乱立した東京都知事選を巡っては、今年6月23日付で「ハッキリ言って東京都民が気の毒になる」と書き起こした。
考えは人人により違いますからね。候補者は乱立します。
>執筆するときは、「書き出しに一番悩む」という。 >「僕がいつも言っているのは、記事を書くときは取材した中で一番面白かった話を最初に持ってきなさい、ということ」 >主要誌の部数は、連載開始時から減り続けている。 >日本ABC協会の調査で約59万部あった「文春」や50万部前後の「新潮」「週刊現代」「週刊ポスト」も、令和5年7~12月平均は「文春」が約21万部、「現代」「新潮」「ポスト」が11万5000部前後。 >「週刊誌がなくなったら大きなメディアを論ずるものがなくなる」と懸念しつつも、「週刊誌はなくならないし、なくなってほしくない」と期待を込めた。
そうですね。 我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国 (現実の内容) は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標 (非現実の内容) に到達しない。だから、政治はわが国の若者にも夢と希望を与えない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>(寺田理恵) >花田紀凱 >はなだ・かずよし 昭和17年、東京都生まれ。 >東京外国語大を卒業後、文芸春秋に入社。 >63年に「週刊文春」の編集長となり、同誌の部数を大きく伸ばす。 >平成8年に文芸春秋を退社した後は「uno!」「編集会議」「月刊WiLL」などさまざまな雑誌の編集長を歴任し、28年から「月刊Hanada」編集長。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるかもしれませんね。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。 「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
|