>現代ビジネス >「もう義理人情ではムリ…」福沢諭吉が嘆いた「明治日本の限界」 >松岡正剛 (編集者) の意見・ >6時間・ >「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。 >日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか? >昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。 >2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。 >※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。 >義理人情の限界 >明治政府が近代日本を構想するにあたって選んだ方針には、2つの達成目標がありました。 >「新しい日本をつくること」と「古い日本を自慢すること」です。 >新しい日本は統治力と産業力と軍事力を備えた新日本です。 >これは文明開化・殖産興業・富国強兵のスローガンにあらわれた。 >古い日本の自慢は、万世一系の天皇とともに変遷してきた歴史を日本の国民として海外にも誇ることでした。 >そのためには新しい学問で古い日本を説明できなければなりません。 >新しい日本を逞しくするには「工場」が必要で、古い日本に誇りをもつには「学校」が必要です。 >両方ともどんどんつくったのですが、工場が「もの」をつくるのに対して、学校は「人」と「歴史観」をつくらなければならない。 >しかも古い日本と新しい日本の両方を誇れる人間をつくる必要がある。 >かんたんではありません。 >「もの」はつくって売ればいいのですが、「人」や「歴史観」には納得力や説明力がいる。
そうですね。
>では、どうするか。 >結論からいうと、西洋の学問を急速に採り入れつつ、一方で「教育勅語」にみられるような日本的な道徳観や国民観を植え付けていこうと決めたのです。 >しかし、これがいささか「ねじれ」を呼びました。 >順に説明していきますが、まず新政府は日本の歴史や社会を解読するために「ヨーロッパの学問を用いる」という手法を用いることにした。 >明治の知識人たちも福沢諭吉や中村正直や中江兆民をはじめ、海外の学問やテキストや見識や技術に学ぶことを重視したのです。 >鎖国状態から脱して海外の列強と伍する国をつくるには、当然のことでした。 >福沢諭吉の焦り >福沢諭吉の『西洋事情』が突破口をひらきます。 >この本は、咸臨丸でサンフランシスコに着いて以来、遣欧使節団に同行して1年あまりのヨーロッパ各国見聞と、軍艦受取委員会の随員としてふたたびアメリカにわたったときの、都合3回にわたる洋行体験での見聞を書き記したもので、議会、外交、紙幣制度、税制、会社、軍事、科学技術、図書館、学校、新聞、病院、博物館、電信機などなど、ともかくなんでも書いてある。 >読んでみると、欧米の実情を知ることがいかに急務であったかがひしひしと伝わってきます。 >焦りも感じる。 >続く『学問のすすめ』は大ベストセラーになりました。 >「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言えり」が有名ですが、諭吉が言いたかったことはそのあとに書いてあることです。 >人は生まれながら貴賤や上下の別はないけれど、現実には貧富の差や身分の上下がまかりとおっている。
そうですね。日本人の社会は序列社会ですからね。
>それを少しでも平等なレベルにもっていくには、人が学問を身につけたかどうかにかかっている。
残念なことに学問に名を借りた人間序列が形成されましたね。
>だから学問、とくに読み書きの力、計算の力、基本的な道徳観、そして実学の習慣を身につける必要があると言っているのです。
そうですね。これは初等中等教育の成果ですね。
>道理や義理や人情だけではむりがある。
道理は物事の筋道。 義理は序列関係により生じる個人的な義務。 人情は恣意・我儘・身勝手ですね。
>これからの日本には新たな知識や合理的思考や実学の習得が急務だと強調したのです。
子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。 英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。 英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。 子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。
英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。 未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。 意思を表すと加害者意識も経験することになる。 それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。 深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。 事故の原因究明がうやむやにはならない。
魂の救済を必要とする人も出て来る。 贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。 こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。 だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。 日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。 日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。 だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。 嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。 難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている。 世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。
「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO) 日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。 日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。
ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。 日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。 マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。 「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー) ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 日本人の無哲学・能天気はついに国際的にも知られるようになったか。
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
(略)
|