特攻隊員 |
>文春オンライン >「明日ハ自由主義者が一人この世から去っていきます」 22歳で戦死した “特攻隊員の慶応生” が出撃前夜にひそかにつづった “最後の言葉” >保坂正康によるストーリー >・3時間・ > 太平洋戦争末期、旧日本軍は片道の燃料だけを積み、生還を期さない航空特攻作戦を組織的に推進した。 >軍指導部はなぜ「統率の外道」とされた非人間的な作戦を強引に承認し、現場に責任を押しつけたのか? > 戦時中の生々しい実態を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『 昭和陸軍の研究 下 』(朝日文庫)より、一部を抜粋。 >出撃前夜に自由主義者としての信念を遺した学徒兵・上原良司の「所感」とその背景を紹介する。(全2回の1回目/ 2回目に続く ) >◆◆◆ >「統率の外道」死を覚悟して戦い自滅する特攻作戦 > この作戦を最初に考えたのは、海軍内部の航空畑の幕僚たちであったが、それを具体的に推しすすめたのは、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎であった。 >当初、大西はこの作戦を「統率の外道」と自嘲したが、すでに戦力が極限まで落ちこんでいる日本海軍としては、一時的にはこのような作戦をとるしかないとも判断した。 > ところがその戦果があまりにも大きかったために、この作戦こそ有効であるとの了解がいきわたるようになった。 > そして特攻パイロットの養成、特攻機の開発などに力を入れていくことになった。 >各種の資料によると、特攻作戦を考えたのは実際には海軍よりも陸軍のほうがはるかに早かったという。 >つまり昭和19年2月から3月にかけて、その考えが参謀本部作戦部のなかに生まれていた。 >作戦課長の服部卓四郎などがそうした考えをもっていた。 >しかし、この作戦には反対の声も多かった。 >たとえば航空総監の安田武雄などがその中心であった。 > そのために、3月には安田が更迭され、参謀次長の後宮淳がこのポストを兼任することになった。 >時期的にいえば、首相、陸相の東條英機が参謀総長を兼任したあとに、特攻作戦は本格的に模索されたことになるのだ。 > 当初、特攻作戦は表面上は論じられなかったが、指揮者の間では特攻作戦が容易に行われるような土壌づくりはすすめられた。 >パイロットたちが死を覚悟して空母や航空基地で戦い、そして自滅していくことに感状が次つぎに発せられた例などがそうであった。 > そういう空気のなかで、特攻作戦になじむ空気が意図的につくられた。 >これなど軍官僚の責任のがれの体質をよく示しているといえた。 >責任を下に下にと押しつける「タテマエにこだわる日本陸軍官僚一流姑息な手段」 > 爆撃機はしだいに特攻機に変えられていった。 >九九双軽、四式重などが特攻機へ改造されていったのである。 >そして昭和19年9月25日に、航空特攻作戦の推進を、陸軍指導部は決めていた。 > 指導部内には依然としてこの戦法に抵抗を示す者がいたが、参謀本部は航空本部に「ぜがひでも航空特攻を行うよう準備をすすめてもらいたい」と詰めより、強引にその作戦を承認させたのであった。 > こういう経緯は、海軍内部の特攻作戦採用までの経過とくらべると、はるかに狡猾であり、そして責任を下に下にと押しつける巧妙な方法でもあった。 >これは部隊編成についても指摘できることで、天皇の名において行う作戦とはしたくないために、第一線指揮官が独自に行う部隊編成というかたちをとることですすめられた。 > 森本忠夫著の『特攻』では、これこそ陸軍の指導部が、特攻作戦は「統率の外道」と認めていたことを逆説的に裏づけていると指摘している。 >「陸軍内部の自発的に出来上った私設の集団」というかたちこそ「タテマエにこだわる日本陸軍官僚一流の、実は、姑息な手段に過ぎなかったのである」という点も確認しておかなければならない。 >比島沖海戦にぞくぞくと投入…学徒出陣組が意図的に徴用された海軍特攻機 > 10月25日以後、海軍の特攻機はレイテ湾をはじめ比島沖海戦にぞくぞくと投入された。 >陸軍特攻機が初めて出撃したのは、11月7日のことで、第四航空軍(司令官・富永恭次)の「富嶽隊」の四式重一機がラモン湾方面に出撃し、散華(さんげ)している。 > 陸軍特攻もまたこの日以後連日のように出撃をつづけ、比島沖、沖縄戦と青年パイロットが自らの命を爆弾に変え、散華していったのである。 > 片道のガソリンだけを積み、生還を期さないこの攻撃に、パイロットたちはどのような思いをもっていたのだろう、と考えれば、次代の者はただ瞑目するのみである。 >加えて特攻パイロットには、学徒出陣組が意図的に徴用されたという事実を指摘しておかなければならない。 >22歳の青年が特攻隊員として出撃する前夜にひそかにつづった「所感」 > 私の手元に、今、一枚の学徒兵の軍歴を記した経歴書がある。 >特攻隊員として逝ったパイロットのものである。 > 上原良司は、昭和18年11月に学徒出陣で慶應大学経済学部を休学し、陸軍の歩兵第五十連隊に入営した。 >上原の手記の一部は、『きけわだつみのこえ』に掲載されているが、彼の経歴が次のように紹介されている。 > 慶應大学経済学部学生。 >昭和18年12月入営。 >20年5月11日陸軍特別攻撃隊員として、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。 >22歳。 > 上原の手記は、別掲資料のとおりである。 > 上原の現世への別れの書はこれまで2通、社会には知られている。 >1つがこの「所感」ともう1つが家族に宛てた遺書である。 >遺書はすでに出征後の一時帰宅時に自宅(当時、長野県南安曇郡有明村)の机のなかに置かれていたが、ここに掲げた「所感」は特攻隊員として出撃する前夜にひそかにつづって報道班員に託していたものであった。 >「明日ハ自由主義者が一人この世から去つていきます。」 > この「所感」は、誰に宛てたものでもない。 >アメリカ軍の機動部隊に突っこんでいくという前夜に、自らの信条を書きのこし、次代の者にこのような一学徒がいたということを伝えようとしたのであろう。 >ここに書かれている内容を口にしたり、書き物としてのこしたとすれば、まちがいなく逮捕される。
それは恐ろしいことですね。
>反戦分子として相応の罰を受けたであろう。
臣民は ‘戦争大好き’ と言わなければなりませんね。
> だが上原は、自らの「死」とひきかえに枢軸国家は敗れ去り、自由を尊ぶ国家が生きのこるであろう、と書いたのだ。
一億総玉砕は考えていなかったのですかね。
>「自己の信念の正しかつた事、この事は或は祖国にとつて恐るべき事であるかも知れませんが、吾人にとつては嬉しい限りです」といい、「明日ハ自由主義者が一人この世から去つていきます。 >彼の後姿ハ淋しいですが、心中満足で一杯です」と断言したのである(原文から引用)。
情けない話ですね。
> 現在、特攻作戦を指令した上級指揮官の言、たとえば第四航空軍司令官の富永恭次は、「私も君らにつづく。 >安心していってくれ」といった類の言が紹介されているが、上原の「所感」のほうがはるかに歴史的な普遍性をもっていることはいうまでもないように思う。
そうですね。富永恭次の発言には未来の展望がない。
> 上原は自らに与えられた時代の呪縛を恨みとしながら、人類の普遍性のなかに生きることにしたのである。 >〈「ああァ、だまされちゃった」「こんな所までわざわざ自殺しに…」22歳で戦死した“特攻隊員の慶應生”が、仲間たちと語った“本音”〉へ続く
我が国は狐と狸と貉の住む国ですね。
>(保阪 正康/Webオリジナル(外部転載))
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