かわいそうな像の絵本を思い出しました。
子供に読み聞かせしながらも涙した本です。
私達と同じ年代を生き抜いた像さん、本当に頑張ってくれましたね。
こんな長生きができるのはすごいと思いました。
NHK NEWS WEB 2016年5月27日18時49分をコピーしました。 ゾウのはな子が残したもの 東京・武蔵野市の動物園で飼育されていた国内最高齢のメスのゾウ「はな子」が26日、死にました。69歳でした。娯楽が少ない戦後の日本にやってきて人気者になった一方で、周囲に理解されず鎖につながれたまま過ごした時期もあったはな子は、人々の心に何を残したのでしょうか。 安らかな最後 武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた井の頭自然文化園。26日午前8時半すぎ、いつものようにはな子の飼育施設を訪れた飼育員は異変に気づきました。はな子が倒れていたのです。 「このままだとみずからの重さで内臓が押しつぶされ死亡するおそれがある」 都内のほかの動物園からも応援に駆けつけ、20人余りで寝返りをさせようとするなど必死の看護をしましたが、午後3時4分、息を引き取りました。看取った園長は「苦しんだり暴れたりすることなく、最後に大きく息を吸って静かに逝ったのが印象的だった」とその時の様子を話しています。 手を合わせる人たち 「ゾウのはな子が死んだ」 突然の連絡を受けた記者が井の頭自然文化園に着いたのは、閉園時間を過ぎた午後5時すぎでした。インタビューの相手を探すまでもなく正門前には手を合わせる多くの市民の姿がありました。 「小さいころからはな子を見るのを楽しみに来ていたので本当に残念でなりません」「はな子に戻ってきてほしい」 皆、涙を流しながらその死を悲しんでいました。 なぜ、はな子の死はこれほどまで人の心を動かしたのでしょうか。 戦後日本を元気づけたはな子 はな子が日本にやってきたのは戦後間もない昭和24年。まだ2歳半くらいで、子どもの背丈ほどのはな子は娯楽の少なかった当時の日本で大歓迎を受けました。神戸港から上野動物園に運ぶため特別列車も運行され、途中の駅でも見物人があふれるほどだったと言います。 はな子が歓迎されたのは、戦争中に起きた悲しい出来事も背景にあります。戦争中、上野動物園には3頭のゾウがいました。ジョン、トンキー、そして花子です。ところが空襲が東京にも及ぶようになると、ゾウが逃げ出すおそれがあるとされ、3頭のゾウは餌を与えられないまま死んだのです。 戦争が終わると一転して動物園の人気者のゾウを求める声が高まり、アジアの親日国タイからまだあどけない子象が贈られました。戦争中に絶命した「花子」の思い出もあり、その子象は「はな子」と名付けられました。はな子は、その後インドから贈られたインディラとともに戦後の日本を元気づけたのです。 不幸な出来事 はな子は、昭和29年、熱烈な招致に応えるかたちで井の頭自然文化園にやってきました。ところが、このあとはな子の人生は思いがけない方向に動き始めます。 ある日の深夜、はな子は、酔っぱらって飼育施設に忍び込んできた中年の男性を踏んで死亡させてしまいました。悲劇はさらに続き、4年後には飼育員の男性を死なせてしまったのです。 一転して“人殺しのゾウ”というレッテルを貼られたはな子はこのとき13歳。薄暗い飼育施設で足を鎖でつながれたまま過ごすことになったのです。 心を通い合わせた飼育員 やせ細ったはな子の姿を見て心を動かされた飼育員がいました。事故のあと赴任してきた山川清蔵さんです。 はな子の担当となった山川さんが最初にしたのは足の鎖を外すことでした。山川さんは、口元まで餌を運んだり、話しかけたりしてはな子の心を開かせようとつきっきりで世話をしたといいます。その結果、はな子は山川さんを受け入れ、その後、子どもたちから手渡しで餌をもらうなど、元の姿を取り戻しました。 群れで暮らすゾウがたった1頭で日本にやってきて、仲間のゾウとも離れて暮らすなかで起きたトラブル。その境遇を優しいまなざしで見つめる山川さんの気持ちがはな子に通じたのではないでしょうか。 「はな子に助けられた」 このはな子に特別な思いを寄せる人たちがいます。 地元、東京・武蔵野市には学校や職場になじめない若者が通うフリースクールがあります。このフリースクールでは生徒自身が動物園に通い、はな子がさまざまな境遇の中で生きてきたことや、その後、はな子の心を開くために飼育員がさまざまな工夫を行ってきたことを学びます。感受性が強く、大人に対して強い不信感を抱いていた生徒は、はな子に自分を投影するとともに支えてくれる大人がいることを知り、社会と向き合う心を育んでいくというのです。 卒業していった生徒の中には、「どん底の気持ちを感じたこともあったが、多くの人に支えられて生きているはな子と出会えて助けられた。自分も逃げずに前を向いていきたい」と話す人もいます。フリースクールの上田早苗園長は、「生徒たちにとって苦難を乗り越えたはな子は大きな存在だった。最期まで生き抜いたその生き様は今後も支えになる」と話していました。 「はな子 ありがとう」 東南アジアから日本にやってきて、69年の大半を武蔵野の雑木林に囲まれた動物園で1頭で暮らしてきたはな子。多くの人たちは、その姿を自分に置き換えながら、時に励まされ時に思いやりながらはな子を見つめてきたのです。 「はな子、長い間本当にありがとう」動物園の前で取材に応じてくれた人たちが口々に語ってくれた思いです。 |