>武田邦彦のブログリンクより転載します。 >---------------------------------------------------- >丸山真男先生は「日本には他者がいない」と言いました。>つまり「自分と違う考えを持った人の存在を認めない」と言うことで、それを丸山先生が糾弾しました。
そうですね。日本人には、考え (非現実) そのものがないだから、他人の考えも自分の考えも存在しないのでしょう。
>しかし、それは曲がりなりにも日本人が「自分の考え」を持っていたよき時代のことです。
それは、幻想の様なものでしょう。持てるはずもありません。
>現在はさらに進んで「自分の考え」がなくなり、「お上のご指示」だけがある時代になりました。
それは、全くその通りですね。
>何しろ「CO2で温暖化している」とお上が言えばそれがあたかも自分の考えになってしまいますし、「温暖化で南極の氷が融けている」とNHKが言えば、そのNHKがデータソースとしているIPCCが「温暖化で南極の氷は増えている」と書いてあっても、英語は間違いで、日本語が正しいとしてそれを信じるような浅薄な日本人になってしまったのです。
全ては、権威主義と暗記力の問題ですね。
>放射線による被曝についても同様で、法律(国民の間の約束で、国民の代表である議員が決める)の多くが委任法案(大事なことは省令などで決める空虚な法律)であり、さらにその法令で定められていることより、時の政府が法令を隠していうことに便要する「知識人」が多いのには心の底からビックリしました。
昔からあることでしょう。
> 自分の考えを持たず、虎の威をきる狐のように、 > 1)お上の後をついて行く、
序列社会の権威主義ですね。
> 2)あたかもお上の言うことが自分の考えのように言う、
復唱の励行ですね。受け売りが盛んですね。
> 3)それに反する意見の人をバッシングする(他者はいない)、
議論はできないのであるから、‘問答無用・切り捨て御免’ ですね。
> 4)従って一貫性がなく、意見を変えたときにも説明をしない、
説明責任はない。‘日本人は、要領が良いのだ’ という人もいます。
> 5)常に有利な方を探してコウモリのようにあっちに行ったりこっちに来たりする、
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) ‘信なくば、立たず’ (論語)
>という人が目立ちます。 (略)
>そんな社会の中で、先日のブログにも書きましたが、私は時々、「二重人格」と言われることがあります。>それは自分と全く違う考えの方のご意見を「頷きながら聞く」と言うことがあるからです。>少し前に全く違う私の考えを聞いた人は、私が正反対の考えを聞いて「頷いている」のが奇妙に感じられるようです。
そうですね。二重人格は、相手の忖度 (推察) によるものですら、どうしようもありません。それは、勝手な解釈です。正しい作文・正しい理解の道からは外れています。
>私が「頷いている」のは、自分の意見と同じだからではなく、その人の考えがわかったから頷いているのです。
そうですね。私は理解しております。
>自分と違う考えの人にお会いして「違う根拠」をお聞きするのは実に快適です。
‘また、楽しからずや’ ですね。
>だから、どうして現在の日本では異論を許さずという雰囲気があるのでしょうか?
現実肯定主義者は非現実の内容を嫌います。現実の内容は一つ、非現実の内容は無数にあります。話にうつつ (現) を抜かさなければ、異論というものは存在しません。
>まるで子どものイジメのようです。
そうですね。子供には非現実の内容が無いから、そうなりますね。
(略) >これらは「他者がいない」、「個人が自立していない」、「知識人が国民を軽蔑している」と言うことに他なりません。
そうですね。考えは非現実の内容であり、人さまざまです。考えが無ければ、現実の内容ばかりで一つになり、異口同音になります。これは、没個性的社会の実現です。
.ネット社会でもバッシングが横行し、他者の考えをじっくり聞くことができなくなってしまっています。
現実肯定主義者が、異口同音にならない現実の有様を見てイライラしているのでしょうね。
>ネットでは匿名で、自分の考えと違う人を口汚く罵るということもあるようです。
公衆の面前で、自分を慰める行為に出のですね。’恥を知れ’ (Shame on you!’ と言いたいですね。
>まずは政府やお上、マスコミの言うことを参考程度として、「自分の考え」を持つことが第一、そして「自分と違う考えをよく聞いて納得する」という風土を作ることは日本の民主主義、日本の発展のためにどうしても必要なことと思います。
そうですね。同感です。 現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。両者は所在が違うから、内容は同じにならない。 考えの内容は、非現実である。非現実の内容は時制のある文章内容として表される。日本語文法には、時制というものが無いので、非現実の内容は脳裏に蓄えることが出来ない。だから、日本人には考えが無い。だが、英語には時制がある。自分自身の考えを持つためには、英米流の高等教育が必要ではないでしょうか。 >----------------------------------------------------- >以上です。
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