2018年03月24日(土) 

 

>個人主義社会では、自分の意志で、物事を判断していかなければ、生きていくことはできない。>ところが、主体性を喪失する事は、自分ではなにも判断できなくなることを意味する。>自分で決めなければならないのに、自分ではなにも決められない。>このような状況は、大変なストレスを生み出す。>解消のしようがないストレスは、やがて人格を破綻させ、精神に異常をきたす。

 

日本人には、意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には、意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思が無いので、仕方がない。だから、諦める。これが、日本人の主体性喪失の原理である。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない全て文章は、正しい考えを示している。だから、正しい考えは一つではない。人の数ほどある。考えは、その人そのものを表している。全ての考えを保護することは、全ての個人を保護することになる。だから、これが個人主義の目的である。

日本人には意思は無いが、恣意 (self-will) がある。意思は文章になるが、恣意はならない。バラバラな単語のままである。文章にならないものには、意味が無い。矛盾も指摘できない。だから、議論にならない。話者の発する単語をもとに聞き手は忖度 (推察) を働かして目的を達しようとする。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから話者には責任が無い。それで、意思疎通、いや恣意疎通に関する問題が起こる。日本人の誇る以心伝心は、日本人が思い込んでいるほど便利なものではない。

忖度をさらに発展させるために、談合を開く。お互いに腹の探り合いをして、腹を括って決着する。リーズン (理性・理由・適当) の表明もなければ、リーズナブルな答えも明らかにはならない。ああ、空しい。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、単語でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

 

 


閲覧数723 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/03/24 00:03
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