2018年06月15日(金) 

 

 

>会議から「不毛な議論」を排除する進行術

 

論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と話している。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。

だが、自分がどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものがないからである。彼は、’不毛な議論’ の生みの親であろう。

現実の内容は、本当のことである。非現実の内容は、嘘である。考えの内容は、非現実であり、見ることができない。ただの話である。その意味の把握には理解が必要である。

誰も嘘つきにはなりたくない。思考停止であれば、嘘つきにはならない。だから、自分には考えというものがない。彼が多弁なのは、受け売りばかりだからである。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

>ホワイトボードの使い方がポイント>「会議が多い会社はつぶれる」といった通説があります。>会議に時間をとられ、本来の業務に支障が出ている人も多いのではないでしょうか。

 

そうですね。不毛な議論は、時間の無駄ですね。

 

>パナソニックシステムソリューションズジャパン部長の木部智之氏は、「会議では最速で結果を出すことを目指すべき。お互いの理解不足で生じるような議論はムダでしかない。まず、こういうムダな議論を排除すべきだ」と言います。>ムダを省くためには、どうやって会議を運営すればいいのでしょうか――。>会議で起こりがちな「ムダな空中戦」をそのままにしない

 

そうですね。不毛な議論はやめましょう。

 

>口頭でのコミュニケーションは、1対1だけではなく、ミーティングや会議のように3人から10人以上の大人数で行われることもあります。>会議に参加しているときに、はたから見ていて、「(いましゃべっている)この2人、議論がかみ合ってないな……」と感じることがあるのではないでしょうか?

 

日本人は、文章の理解に慣れていない。日常生活において、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) を多用しているからです。

文章には、意味がある。しかし、ばらばらな単語には、意味がない。その矛盾も指摘できない。だから、議論にはならない。

しかし、わが国では違っている。意味のないはずの片言隻句が取り上げられて、忖度 (推察) されて、聞き手によりあたかも意味のあるように主張される。これは、伝統的な歌詠みのようなものか。

忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、発言者に責任はない。にも拘わらず、忖度の内容は、独り歩きする。だから、日本人の議論は始末がわるい。

 

>口頭で議論しているときにありがちな光景ですが、この「空中戦」は、時間のムダでしかありません。>このような「ムダな空中戦」は、参加者の「意見の相違」ではなく、参加者の「理解が異なる」ところから生まれる場合がほとんどです。>言うなれば、きちんと相手の意見を理解できていれば、起こらなかった衝突です。

 

日本人の理解は、西洋人の理解とは違っています。理解という言葉は多用されるが、’理解をよろしくお願いします’ とは、’忖度 (推察) してください’ という意味である。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が “理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。 “相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

>「議論がかみ合わない」と感じたら、即、ホワイトボードに書く

 

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。書いたものは、斧でも切れない。確実な証拠になります。

 

>このような不毛な事態を避けるために活用すべきなのが、「ホワイトボード」です。>話の内容を図解にして「イメージ」として伝えると、大人数の参加者にも、ほぼ同じ内容で話が伝わります。>それぞれが理解している内容が共通化されれば、きちんと内容についての議論ができ、「ムダに議論がかみ合わない」という事態を避けることができます。

 

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>「報告」や「連絡」などの一方向のコミュニケーションではなく、「議論」のような双方向のコミュニケーションが中心となる「会議」では、ホワイトボードを使うことが「会議」の成否を分けるといってもよいでしょう。

 

双方向: 文章の内容は、理解されます。議論も可能です。弁証法 (対話術) が使用できます。

一方向: 片言隻句をとらえてする忖度は、聞き手の勝手な解釈です。独りよがりであり、議論にはなりません。’問答無用・切り捨てごめん’ です。

 

>話をしている人の頭の中を「見える化」することが、実に有効なのです。

 

そうですね。可視化は、実に有効ですね。

 

>(略)

 

 

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閲覧数352 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/06/15 14:35
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