>アメリカ社会は今も集団主義的 >中野:アメリカ社会は今も集団主義的ですよ。>日本人でもアメリカをよく知っている人ほどそう言います。
あなたは受け売り専門の方ですか。
>しばらく前にはやった「忖度(そんたく)」という言葉について、「そういうことはアメリカにはない。英語にはない」なんて言っていた人がいましたが、うそを言ってはいけません。
英語は、低文脈文化の言語ですから、すべての内容は文章の中に表れています。文章の中に表れていない内容は、考慮の対象にはなりません。
>忖度なんてものはアメリカでも普通にありますよ。
忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者に責任はありません。独りよがりの態度です。ですから、忖度の内容は議論にはなりません。
>むしろ映画などで組織に従わない個人がヒーローになっているのは、その反動じゃないかと。
Outlaw (無法者) は、文字通り社会からの追放者ですね。アメリカ人は、対話を重視しています。
>構造改革論者は「個人主義でなければだめ」と言いたがりますが、それは個人主義を称揚するアメリカメディアのプロパガンダを真に受けているからです。>実際はアメリカ人が個人主義なのではなくて、アメリカ人の理想が個人主義ということにすぎない。
自己の理想を明らかにすることが、協力者を増やす道ですね。現実生活においては、清濁併せのむ必要に迫られます。それが、人生の葛藤というものでしょう。中庸の徳を見つける努力が必要です。
>佐藤:だいたい、わが国では「個を確立しよう」と説く人ほど没個性的と相場が決まっている。>アメリカ化への同調を強いているのですから、当たり前の話です。
アメリカ化に同調すれば個の確立が得られないというのもおかしな話ですね。個の確立に同調すれば、個の確立が得られるのではないでしょうか。同調が没個性的というのではなく、没個性的な人も、同調する可能性があるということでしょう。
>中野:多様性が大事なら、みんなで「ダイバーシティ」なんて口をそろえて言うなということですよ。
口をそろえていったか、言わなかったかの問題ではなさそうですね。「ダイバーシティ」(非現実) の内容を現実の世界において実現できるか否かの問題だと思いますよ。考えは、個人個人で違っている。意思のない人たちは、現実生活で個性的になれませんね。
>そういうのを見ていると、施さんの本とは逆になるけれども、「日本人ってやっぱり流されやすいのかな」という気もしてしまうんです。
意思のない人たちは、没個性的です。「ダイバーシティ」は、日本人の単なる流行語ということになるのでしょうか。無哲学・能天気の人達は、時流に流されますね。
>柴山:集団主義という言葉はあいまいなところがありますね。>人と違うことをやるという意味での個性を認めるのが自由社会だというのがジョン・スチュアート・ミルの古典的な自由論でしたが、集団主義はその反対ということなのか。
ご唱和の世界の人々のことですかね。
>佐藤:福田恆存は「個性は強制と禁止によってしか生じない」と喝破しています。>いわく、人間は強制や禁止の下で初めて、何を強制されたり禁止されたりするのがいちばんつらいかを自覚する。
‘不自由を常と思えば不足なし’ でしょう。日本人は意思がないから、元来おとなしい。
>つまり本当にしたいことが見えてくるわけで、それこそが個性確立の出発点である、と。
日本人には意思がない。だから、本当にしたいことが見えてこない。理想がないので、本当にしたいこともわからないでしょう。無為無策でいる。この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。
>柴山:あえて禁止されていることを行うエキセントリックな人間を個性的と考えるわけですね。>しかし日本にも「数寄者」「傾奇者」というように、そういう人間を認める文化もありましたね。
人間固有の言語の効用を無視した、アニマルの次元の個性の話になりましたね。個性的とは非言語の世界の変わり者のことではないでしょう。考え・意見の違いのある持ち主の話でしょう。
(略)
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