現実と非現実 非現実の内容から矛盾を排除できれば、それは正しい考えとなり哲学 (philosophy) になる。日本語は非現実の枠組みがないから、考えの文中から矛盾を取り除く作業ができない。矛盾が排除できなければ、その内容は矛盾を含んだままになり空想 (daydream)・妄想 (delusion) にとどまる。お陰様でわが国は、無哲学・能天気でありながら漫画・アニメの大国になりました。 各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. さすれば、自分の住みたい世界の内容を想定することも可能になる。自己の ‘あるべき姿’ を持つ世界の内容を堅持できれば、日ごろからその実現に向かって努力を惜しまないような生活態度になる。政治による打開策にも関心が持てるようになる。かくして、政治音痴よ、さようなら。 非現実の内容を文章にすることができれば、哲学を持つことができる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治・科学に関する考えは、政治哲学、科学哲学になる。などなど。私は日本人のインテリから、’哲学とは何ですか’ と同じ質問を何回も受けた。その答えは ‘考えと信念’ であるが、それはどの辞書にも出ている単語である。にも、関わらず、日本人には深遠で不可解な単語のようである。きっと日本の学生は、大学に入って自己の哲学を完成させることなく卒業して来たに違いない。 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) インド人はインド哲学を持っている。しかし、これは学歴とは関係ない。皆が持っている。非現実の内容を文章化する文法的な枠組みと関係しているからである。彼らの文法には時制がある。日本人が無哲学・能天気であるのも同様な理由で、勉強嫌いの為ではない。我々の文法には時制がない。非現実の内容を文章化する文法的な枠組みが存在しない。 非現実が文章化できれば、これにより日本人は、無哲学・能天気の状態を脱出することができる。文章化に成功しなければ、我々にとって世界観は単なる人から人への言い伝えにすぎない。 ’日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。(ウスビ・サコ) そうですね。わが国の政 (まつりごと) は相も変わらず ‘他力本願・神頼み’ ですね。形式 (儀式) があって、内容 (教義) がない。人々は形式から形式へと気軽に渡り歩くので、その浅薄さはまぬかれえない。日本人の宗教は、苦悩の深刻さにも魂の救済にも関係がない。 改革しなければ、日本人はこれからも処世術に没頭して、自己の義務以上の政治的努力には関わろうとはしない。受け身の生活そのものを続けることになり、来るべき世界の到来には無縁であります。現在の世の中にただひたすらに閉塞感を感じることになります。 語学精進の暁には、我々は自己の世界観を表現できるようになって、その内容が多くの人に理解されることにより外国人からの信頼を得ることも可能になります。 自己の意思を示して責任能力のある事を証明することができる。そして、未来社会の建設に賛同する同志を得て責任のある地位に就くこともできる。さすれば、日本人は人類の進歩にさらなる貢献ができる。我々の未来は明るく開けている。
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