>’70年以降、私権は衰弱する一方なのに、庶民が受験戦争に没入していったのは、なんで?
日本人には序列メンタリティ (考え方) がありますからね。 日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。 日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。 序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。義兄弟のようなものか。
>・昔も今も、試験に通って支配階級になれるのは、上位10%以下。
本当に難関ですね。
>大学進学者が5割を超えた現在、大卒の大半は出世できないし、選択肢も増えない。
立身出世が日本人の目的でしたね。上を見ればきりがない、下を見ればきりがない。それが我々の序列社会でしょう。
>・それどころか、昔の東大・京大生はそれなりに優秀だったが、’70年以降、時代が進むにつれて人間力・追求力の欠如した暗記脳の人材ばかりになってゆき、東大・京大生の大半が、出世どころか使い物にならなくなってきている。
日本人は元来、無哲学・能天気ですからね。真の学問には縁がないですね。思考停止でもうまくやれるものなら心得のある人たちには処世術でやるほうが楽でしょうね。
>・昔は、肉体的な私権欠乏が強く、いわば本能的な欠乏が受験勉強とそれなりに繋がっていた。
そうですね。野良犬の黒 (ノラクロ) でも出世できましたね。
>しかし、今や肉体的な私権欠乏はとことん衰弱しており、彼らが受験に向かう主動機は、専ら「親の期待に応えること」しかない。
日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。それで、行動に自主性がない。
>その場合、たとえ大半の親が学歴・成績期待を持っているとしても、それはあくまでも個人的な期待であり社会的な期待ではない。
日本人には処世術はあるが、世界観は無い。処世術は現実の内容で、世界観は非現実 (考え) の内容ですね。現実肯定主義の日本人には、この世での活躍は考えられても、来るべき世界の内容は想定外になりますね。
>つまり、20年前に経団連が提起したように、社会では誰も、役に立たない受験勉強など期待していない。
そうですね。我が国が必要としているのは未来社会の建設に貢献できる人間ですね。
>社会が期待しているのは人間力と追求力であり、役に立たない五教科の知識などではない。
我々日本人には自主独立の気風が必要ですね。五教科の枠にはめられて一生を過ごすのは情けないですね。
>・従って、親の期待発の受験勉強は、社会が期待しているものではないし、子どもの本能的欠乏とも繋がらないので、子どもの内部では肉体的な拒絶反応が生起し、子どもにとって死ぬほど苦しい作業となる。
我が国は子供虐待の世の中になっていますね。金属バットで祖母に暴力をふるう子供も出てきました。
>その死ぬほど苦しい勉強をやり続けるうちに、子どもたちの活力はどんどん失われ、ゾンビのようになってゆく。
そうですね。日本語脳内では未来の世界が想定外になっています。一寸先は闇に見える。時代の閉塞感が極めて強い。
>◎要するに、社会が期待していない、役に立たない勉強を強制するのは、明らかに、子どもに対する虐待である。
序列主義の強制は、社会構造により生ずる自虐行為の強要ですね。
>【3】やりたいことがない⇒肉体的な欠乏がない⇒遊び本能や性本能や追求本能が封鎖されている。>それらの本能を封鎖しているものは何か?
それは日本人に意思がないからでしょう。意思の無いところに方法 (仕方) はない。 為せば成る。なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり。 上杉鷹山
>☆なぜ大半の親が学歴・成績信仰に染まり、子どもに勉強を強制するのか?
それは序列メンタリティに支配されているからでしょう。日本語のせいですね。
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