2021年07月02日(金) 

 

>368240     組織的文字脳からの脱却  >Bannister     21/06/28 PM07

>左脳偏重教育の結果、文字脳化によって企業組織の人材の劣化が止まらない。  

 

文字は我々にとって大切なものですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。論文を書くためには英米流の高等教育が必要ですね。     

 

>元々奴隷監理の支配道具として支配階級によって生み出された文字や書き言葉は、文字自体に幻想化価値(文字優位・文字を扱える人は偉い・文章を書ける人は尊い等)が多分に含まれている。>現在の学者や識者の身分意識や地位を保障しているものでもある(文字を操る事で、自ずとこの意識が芽生える危険な道具なのかもしれない)。 

 

考えない人には文字は必要ないですね。これではアニマルも同じです。   

 

>しかし、この文字(書き言葉)によって、たった150年で日本人の言語能力は極限的に劣化し、右脳を閉鎖し思考力そのもの(未知課題に対する突破能力)をほぼ失ってしまった。 >それは、同時に日本社会の全体から。>子供も含めた人々の活力が失われた問題と同根である。

 

日本人は思考停止していますね。 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の持っている非現実の内容を語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。    

 

>共同体企業では共認こそが全てであり、その主軸は対面共認による右脳コミュニケーションによる一体充足が基盤となる。 

 

それは馴れ合いでしょうね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>しかし、例え共同体企業と言えども過渡期に於いては、対面によるコミュニケーションではこれまで個々の成員による残存する私権意識や序列意識により、共同体企業と言えども、旧来の力の原理によって一体充足関係ではない≒私的関係性が企業の存続を危うくする現象も過去多数存在してきた。   

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

 

 

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閲覧数218 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/07/02 15:33
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