>知識と見識とはこのように違うものです。>知識をもとに物事を判断できる、意思決定できるようになると、見識があると言えるようになるということ。>自分の一方的な意見を言うだけの人や、当事者意識なく外野から意見するだけの人は、いくら知識が秀でていても見識があるとは言えない、知識は活用されて初めて価値がある、ということですね。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>■断固たる実行力がともなって胆識となる >身の回りを思い浮かべてみると、見識のある人ですら限られると思うのですが、しかし安岡正篤先生は見識だけではまだ足りないと説きます。 >ところが、見識というものはそういう意味で難しいものですけども、この見識だけではまだ駄目で、反対がどうしてもあります。 >つまり見識が高ければ高いほど、低俗な人間は反対するでしょう。 >見識だけだと、実行面がおぼつかない。 >反対勢力や足を引っ張ろうとする人に邪魔されてしまう可能性があります。(略)
そうですね。’義を見てせざるは勇なきなり’ ですね。
>従って、見識をさらに胆識まで昇華させる必要があります。>そこでこれを実行するためには、いろいろの反対、妨害等を断々乎として排し実行する知識・見識を胆識と申します。>つまり決断力・実行力を持った知識あるいは見識が胆識であります。>これがないと、せっかくの良い見識を持っておっても優柔不断に終わります。
そうですね。ところが日本人には意思はない。けれども恣意 (私意・我儘・身勝手) があります。 日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。 恣意はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人は説明責任をとることができない。 日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、危険極まりない。日本人の責任者は説明責任が取れないし、未来は一寸先が闇である。危険が一杯であるからお変わりのないことが何よりなことである。
>最後までやりきる力、やりぬく力が胆識です。>より一般的な用語で言えば胆力。
意地・根性・大和魂ですかね。
>これ、実は胆識だけその前の2つと大きく違うことに皆さん気づかれましたか? >知識見識は考えること、頭の中だけのこと。 >決断や意思決定にしてもそうですよね。 >対して、胆識とは行動が伴います。
行動計画を実行するのですね。武芸の稽古を通して修行を積むのですね。
>考えたことを行動に起こすこと。 >陽明学では「知行合一」と言います。 >「知っていて行動に移さなければ、それは "知っている" ことにはならない」という意味です。
そうですね。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん) 日本人には意思がない。受動ばかりの言動で能動がない。言動なくしては、事は始まりませんね。
>私たちは空想の世界ではなく現実世界を生きているわけですから、主体的に世の中を動かしていこうと思ったら、ここまで自らを高めなければならないという、とても貴重かつ実践的な教えです。
そうですね。わが国では、真面目な哲学はものになりませんね。それで、日本人の考えは空想・妄想になる。お陰様で、わが国は漫画・アニメの大国になりました。
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