2022年07月22日(金) 

 

 

>378822        すぐ空気に支配される日本人の「いいかげんさ」こそ国の底力である   >匿名希望    22/07/10 AM01 

(略)

> さて、『「空気」の研究』では、「臨在感」や「臨在感的な把握」なるものが主題の一つとなっている。 >「臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、(中略)感情移入を絶対化して、これを感情移入だと考えない状態にならねばならない。」   

 

そうですね。感情的な人間そのものに成り変わるのですね。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。   

 

> 臨在感というのは山本氏オリジナルの用語なので、その定義は割愛するが、山本氏が言う臨在感的な把握は、たとえば一人の人間のなかに、「善の部分と悪の部分が対立しながらどちらもある」と認識するのではなく、自分のなかにある善悪の規準で、他人を短絡的に善玉・悪玉に分けてしまい、ある人間には「自分のなかにある善の概念」を乗り移らせて「善」と把握し、別の人間には「自分のなかにある悪の概念」をすべて投入して「悪」として把握するということだと言う。> ある事件や現象があったとして、なにかのきっかけでそれに多くの人が感情移入し、「そこにマスコミがとびつき、大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる」。 >勝手に感情移入してヒーローに仕立て上げたかと思うと、同一人物のなかに悪を発見して、自己の悪をそこに投影させ、一転、全面的な悪の象徴として、てのひらを返したように、たたき落とすのである。 > なぜ、そんなことになるのか。   

 

感情的な人間だからでしょうね。前後不覚か。   

 

>山本氏は一神教の話をする。 >多神教ゆえに「空気」が絶対になる日本  >「一神教の世界では「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。」   

 

そうですね。   

 

> キリスト教やイスラム教のような一神教世界には、そもそも絶対的なものなど神以外にはない。 >民主主義であろうと、憲法であろうと、何であろうと、である。  

 

そうですね。神の世界は人間の世界とはまったく別次元ですね。    

 

>一方、日本のような森羅万象に神を見いだす多神教にはそのような基軸になるものがないから、何ものかが選ばれて、それがその場や社会を支配する「空気」となって絶対性を持つことがある。

>しかもそれは次々と移ろう。  

 

‘歌は世につれ世は歌につれ’ ですかね。      

 

>「民主(筆者注:民主主義のこと)といえばこれは絶対で、しかも日本のそれは世界最高の別格であらねばならなくなる。 >憲法も同じであり、あらゆる法は常に欠陥を持つから、その運営において絶えず改正を必要する存在であってはならず、戦前の天皇制が、他国の立憲君主制とは全く違う金甌無欠の体制であったという主張と同様、完全無欠であらねばならないのである。」   

 

我が国ではこの世の中に絶対が現れるのですね。   

 

> これは、戦後、軍国主義から一転、民主主義や憲法が絶対視されたことを指している。   

 

これは偶像崇拝のようなものですかね。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

 

>山本氏は、このようにあらゆるものを絶対的なものとして見ることを警戒する。   

 

そうですね。非常に危険であり、日本人には信頼性がないですね。

山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。   

 

>一方で、山本氏は、日本の絶対化の“いいかげんさ”も指摘する。>「この世界には原則的にいえば相対化はない。 >ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただしうまくやれば――」

 

外国人は日本人を信頼しないでしょうね。ご都合主義というのか独りよがりが度を過ぎていますね。我々は世界の中の孤児になるのでしょうか。         

 

>「空気」と「絶対化」が すぐに移ろうことが日本の底力  > しかし、このようなくだりを読んでいて思い浮かんだのは、空気によって支配され、簡単になにものかが絶対化されつつも、すぐに絶対化の対象が移ろってしまう、このいいかげんさこそが、日本の底力なのかもしれないということである。

 

無反省による底力ですかね。無哲学・能天気により生じる空想・妄想の類の出現ですね。おかげさまでわが国は、漫画・アニメの大国になりました。日本人は漫画の中に住んでいるのかもしれませんね。        

 

> 興味関心が揺れ動く。>一瞬大きな力をもつが、すぐに忘れる。 >たとえば郵政民営化。>あんなに盛り上がったが、いったい何だったのだろう。 >なんでもかんでもすぐに祭り上げ、手を出してみたかと思えば、次の瞬間興味の対象は移ろい、そのことは忘れて、次の関心事にまい進する。  

 

‘宵越しの銭は持たない’ という風習によるのですかね。政治家には政治哲学が必要ですね。      

 

>検証もほとんどしない。 >悪の権化もしばらくたつと許される(というか忘れられる。 >あるいは新しいキャラクターに変身したりする)。    

 

日本人は理詰めの考えができない。だから、全てのことがらは疾く風化するのですね。   

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

> しかしながら、この空気の先導によって何かしらが前に進む。   

 

賽の河原の石積みのようなものか。前進があれば予期せぬ前進ですね。      

 

>今回の新型コロナの新常態において、一気にリモートワークが進み、ジョブ型人事や、法規制でできなかったオンライン化がある意味融通無碍に進む。   

 

目先手先の事柄に関する前進ですね。時代を変える変化にはなりませんね。   

 

>深い思想など持たないし、全体や過去との整合性など何も考えない。   

 

無哲学・能天気ですからね。教養のない人間ですね。わが国を教育立国にすべきですね。        

 

>そして、これらの変化のうち、うまく状況にフィットしたものは一般化して定着するが、合わなければ中途半端なままにとどまり、いつの間にか立ち消えになる。  

 

それは自然現象のようなものですね。変化を続けてとどまることを知りません。       

 

> この日本型の“いいかげんさ”を、私自身はずっと“絶対的に悪い”ことだと思ってきた。 >しかし、案外これこそが、日本社会を進化させ、結果として驚くべき柔軟さで変化に対応する日本社会の原動力なのかもしれない。   

 

無意識の中で進む変化ですね。わが国ではアニマルも日本人と同じ立場に立っていますね。   

 

>生物の進化と同様、国家の進化も計画によるものよりも、行き当たりばったりの突然変異とその環境に適応した適者生存によって達成されているかもしれないのだ。   

 

そうですね。我々は昔からそれでやってきたのですね。日本人は自然の中に溶け込んで暮らしていますね。全ては不変ですね。        

 

>新常態下における山本七平『「空気」の研究』の再読は、まったく予想もしなかったような発見を筆者にもたらしたのである。   

>(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)

>(転載終わり)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。 

 

 

 

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閲覧数201 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/07/22 16:29
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