>「当事者」から「共事者」へ。 思いの連続性が社会を変える >Forbes JAPAN | magazine の意見 • 昨日 12:00 >https://images.forbesjapan.com/media/article/64557/…916321.jpg >戦争、紛争、自然災害。 >時々刻々と起きる社会課題に、私たちはどう向き合えばいいのか。 >地域活動家の小松理虔に学ぶ、「事を共にする人=共事者」の社会変革論。 >社会のさまざまな側面で、数の少ない「当事者」の声が大きく拡散されることが増えた。 >しかし、「当事者」という言葉は時として二元論的に「非当事者」との間を線引きし、「当事者以外語るべからず」との空気をもたらすことさえある。
さびしい風潮ですね。言論の不自由ですね。
>そんないまの社会に希望をもたらすのは「共事」の心ではないか──。 >そう提唱する、福島県いわき市小名浜に拠点を構える地域活動家の小松理虔に話を聞いた。 >──著書『新復興論』のなかで、「真の当事者は存在しない」と書いている。
これでは何事も起こらないですね。不毛の主張ですね。
>2011年の東日本大震災と原発事故により、「当事者」をめぐる議論をするようになった。 >僕自身は確かに地震を経験したが、家族を失っていないし、自宅が避難区域になったわけでもなく、「当事者だ」という自覚はなかった。 >しかし、僕の声はSNSなどを通じて当事者の声として拡散された。
それはよかったですね。自己の意思を表明すれば当事者になれますね。
>人は、自分よりも被害にあっている人(内側)を「当事者」と認識し、それより外側にいる自分は「非当事者」であると認識するのだと思う。
自己の意思を表明すれば当事者・関係者になる。表明しなければ傍観者にとどまる。 日本人には意思が無い。だから常に傍観者にとどまる。高みの見物だ。日本人は世界の中にあって世界に属していない。
>あの日、東北エリア以外でも被災した人がいた。 >福島でつくられた電気を消費していた人がいた。 >福島県産の食品を積極的に買う人がいた。 >故郷や故人を思いオロオロと泣いた人がいた。 >濃淡はあるにせよ、それぞれが当事者性をもっていたはずなのに、「当事者」と「非当事者」に二分された世界では、「非当事者」は「自分には語る資格がない」と、語ることを避ける。
それは言論の不自由ですね。’不自由を常と思えば不足なし’ ということか。江戸時代に逆もどりか。
>そこで僕は、震災には真の当事者は存在せず、全員が当事者性をもっていることを自覚し、真剣に向き合うべきだと主張した。
そうですね。自己の意思を示さなければ当事者・関係者にはなれませんね。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>──この考え方には少なからず反発もあった。 >当事者にしか語りえないことはあるのだという反論をもらった。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. あるべき姿を述べる権利が各人にある。
>当事者を無視して、全員で考えるべきだとする僕の意見には、本当に苦しんでいる人たちの声が無視される暴力性があるという声だった。
考えの内容は各人で違いますからね。それが個性というものでしょう。没個性の社会にしてはいけませんね。
>例えば障害福祉の現場では、苦しみのなかにいる人、すなわち当事者が自分の当事者性を表現することでトラウマや傷に向き合う、当事者研究が行われている。 >確かに、当事者にしか語りえないことがあるのは事実だ。
人により意見はちがいますからね。
>──そこで生まれたのが「共事者」という言葉だった。 >一人ひとりがさまざまな社会問題に対してもっている「当事者性」に気づくための新しい言葉が必要だと思い、「事に当たる=当事」ではなく「事を共にする=共事」という言葉をつくった。
共事者も当事者・関係者の中に入るでしょうね。大切なことは自己の意思の表明ですね。意思の表明があれば世界・現実が変わる可能性があります。 気分・雰囲気・感情の表明は歌詠みになる。意思が無い表明は世界・現実を変えることができない。
>社会課題に対して、「私は当事者ではないので、当事者の方々のよいように決めてください」というスタンスは一見、当事者に寄り添っているかのように見えて、実はその課題を自分ごとにできていない。
そうですね。自分ごとにできないのは自己の意思の表明が抜け落ちているからでしょう。
>どんな濃淡があってもいいから、「自分は共事者である」と言うことができれば、社会課題の解決のために一歩を踏み出すハードルが下がるはずだ。
自己の意思を示す人は共事者になれますね。
>また、共事者という言葉に救われる非当事者もいるだろう。 >「私は共事者である」と思うことができれば、「自分は当事者に寄り添えていないのではないか」「誰かを傷つけていたのではないか」という苦しみから解放され、エンパワーメントされる。 >現に、共事者だと考えるようになってから、僕自身もジェンダー問題に対して「自分にも関係がある」と思えるようになった。 >共事者たちがつくる未来 >──共事者が増えることで、社会はよりよくなると思うか。 >世の中を変えるにはふたつの方向性がある。 >専門家(当事者)として実績を1から100へと積み重ねていく方法と、0から1にするスイッチを入れる方法だ。 >共事者という言葉は後者で、ゴールを示すわけでもなければ、社会変革を起こすわけでもないが、スイッチを入れるきっかけになればいいと考えている。
そうですね。集団の力ですね。民主主義の力ですね。
>東日本大震災という大きな出来事があったにもかかわらず、12年たっても結局、社会はそれほど変わっていない。
そうですね。意思の無い人間の世界は自然のままですね。
>世の中は変わりにくいものなのだとすれば、短期的に100の出力をするよりも、1の力を100へ、1000へと緩やかにつなげていったほうが世の中を変える可能性があると思っている。 >共事者という言葉は、1の力を出す人をひとりでも増やすためにある。
日本人には世界観がないですからね。お互いに ‘あるべき姿’ を語りあう機会がないですね。だから人間が自然の中に溶け込んでしまう。
>希望とは、共事者であることに気づいた人たちが、試行錯誤するなかにあるものだと思う。 >「自分は非当事者だ」と、何もしなければ社会は変わらない。
そうですね。意思の無い人間には責任もない。 為せば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり (上杉鷹山)
>課題に対して共事の心をもち、一人ひとりが日常生活で感じているちょっとした不便やイライラを解決しようとしたり、戦争や環境問題など、大きな社会課題のことを気にかけたりするなかに希望は生まれるのだ。
そうですね。歌詠みではなく、自己の意思の表明が大切ですね。
>僕自身、子育てがうまくいかずイライラがたまっていたときに、子育て中の父親を集めてパネルディスカッション形式で愚痴を面白がるイベントを開催したことがある。 >愚痴が数人分集まれば、そこに公共性が生まれてマス・メディアからの取材が入り、行政からも声がかかった。 >日常のちょっとした生きづらさをひとりで消化せずにオープンにする場さえあれば、社会は変わるはずだ。
そうですね。あっけらかんとした世界の中でドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。
>──ー歩を踏み出すために、私たちにできることは何か。 >「一歩」を大げさにとらえる必要はない。 >まずは“私という当事者”の生活や気持ちを大切にすることだ。 >自分自身の暮らしが少し快適になったり、楽しくなったりする方法を選ぶだけでいい。 >例えば食料自給率について詳しく知らなくても、スーパーで買う食材の産地を気にするだけで十分に「共事者」だ。 >自分の選択が社会変化につながっていることに気づいてほしい。
そうですね。
>さっきあなたが買った野菜、今日電車に乗ったこと、居酒屋で隣の人と仲よくなったこと。 >そのどれもが、よりよい社会に近づく一歩なのだ。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>小松理虔◎地域活動家。 >福島県いわき市小名浜生まれ。 >小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰。 >地域のさまざまな分野で企画や情報発信に携わる。 >著書に『新復興論』(ゲンロン)、『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)などがある。
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