>現代ビジネス >なんと、研究者は45歳までが「若手」!? 日本の研究衰退し続ける「本当の理由」 >小林武彦の意見・ >17時間・ >ベストセラー『生物はなぜ死ぬのか』の著者である生物学者・小林武彦さんの最新作『なぜヒトだけが老いるのか』では、研究者の世界の現状についても書かれています。 >近年、日本の研究力の相対的低下が問題になっています。 >その要因として小林さんが指摘するのは、研究者の「任期制」、研究に集中できない大学の組織的問題、そして日本独特の「若手」カテゴリーの存在です。 >(本記事は小林武彦『なぜヒトだけが老いるのか』を抜粋、編集したものです) >いつクビになるかわからない不安、山のような雑務 >私のいる研究者の世界の現状について少しだけお話させてください。 >最近の新聞報道等でご存じの方も多いかと思いますが、ここ20年ほど日本の研究力・科学技術力の相対的な地位は、他国と比べてずっと下がり続けています。 >かつては世界ランキングでも米国、英国、ドイツに次ぐ4位(2005年)で、実質的にはフランスも入れて2位グループと言ってもよかったと思います。 >現在は英国、ドイツにダブルスコアの差をつけられて12位(2021年)に落ち込み、これからまだまだ下がると予想されています。 >理由はいくつかあります。 >一つには我が国の研究者人口の減少です。 >最近15年で修士課程から博士課程への進学者がほぼ半減しました。 >修士課程の学生数は減っていないので、博士課程に進み学位を取って大学や企業で研究者になることに魅力を感じる若者が減ったということです。
それは高度な職業人の社会的な要求が少なくなったということでしょうね。 我が国では人手不足の話は何処にでもあるが、頭脳不足の話は聞いたことがありませんからね。巷には天下の秀才が山ほどいます。
>なぜ人気がないかというと、大学教員の任期制も大きな要因と言われています。 >「人気はないけど任期はあります」と、つまらない駄洒落を言っている場合ではなく、任期制はまだ駆け出しの若い研究者が、数年でクビになるかもしれないという制度です。 >研究にも集中できないし、落ち落ち結婚もできませんね。 >40歳を過ぎてやっとのこと任期付き職員から終身雇用(准教授や教授)になったとしても、研究費を取るのが大変だったり、山のような大学の雑務があったりします。
我が国の研究者は研究費の豊富な国に移動すべきですね。学問には国境はありませんからね。外国で活躍する日本人のスポーツ選手のようにやればよい。
>これらは我が国の大学職員の数や研究のサポート体制が薄いことが理由です。 >たとえば日本のように大学の教官が総出で入試や共通テストの試験監督をやっている国は珍しいです。 >そんなこんなで雑務に追われているうちに定年退職です。 >国立大学の多くは65歳定年ですが、実際には60歳くらいから研究室に学生が取れなくなったり、研究費が取りにくくなったりして、研究活動を縮小していかなければなりません。 >加えて次の就職先を探す必要もあります。 >研究者は、他の職種に比べて一人前になるまでに時間がかかり、この年齢層(50~60代)は世界的に見ても研究を組織するコアであり、若い研究者を育てる中心層でもあります。 >この年代が研究・教育に集中できないのは、本当にもったいないです。 >研究者の定年制はアメリカでは存在せず、ヨーロッパでは国にもよりますが、日本よりも柔軟で、もちろん雑用はずっと少ないです。 >日本は本来文化や知識、技術の継承の担い手であるシニアを大学から追い出しているようなものです。 >これでは誰が考えても日本の科学技術力が落ちていくばかりですね、残念! >それ以上に良くないのは、そのような「シニアの研究者の残念な末路」を目の当たりにして、若い人が研究者になりたいとは思わないということです。 >確実に何十年か後の自分の姿であり、相当研究に魅力を感じていない限り、この世界に入るのは勇気がいりますね。 >「若手」というカテゴリーは日本独特? >日本の若手(45歳くらいまで)の研究者は「若手特別枠」のようなものがあり、研究費等で優遇されています。 >これは若手に期待するという意味があり、20年ほど前から導入されています。 >私が若手のときにはまだありませんでした。 >しかしその「若手特別枠」設立以降、日本の研究力は上がったかというと、そうでもありません。 >そもそも「若手特別枠」というカテゴリーは年齢差別的な制度なので、外国ではあまり見かけません。 >また日本では若手としての優遇期間が終わった瞬間、競争の荒波にさらされます。 >任期制が終わってやっと終身雇用になったかと思いきや、今度は研究者としての生き残りをかけた、真の競争が始まります。 >本来、若いときにこの競争の中で生き残る術を身につけていないといけないのですが、若手の優遇策があることで先送りになっています。 >研究費や人事の評価の方法を、たとえば業績重視にしないで、研究計画をしっかり評価するなどの工夫をすれば若手特別枠は必要ないと私は思います。 >科学技術は日々進歩し、研究者は年齢に関係なく常に新しいことを学びつつ研究計画を立てる必要があります。
そうですね。
>その意味では、生涯「若手」なのです。 >各世代バランス良く研究費を含んだ研究環境を整えるべきだと思います。
どのネズミが猫に鈴をつけるかが問題ですね。
>あらゆる年齢が活躍する組織が理想 >論文を書いたり、研究をプロデュースしたり、次世代の教育に関わるのは、経験豊かな50代、60代の研究者が得意です。 >現状はこの年代に対するサポートは薄く、疲弊が目立ちます。 >これは日本の研究力の低下の一因にもなっています。 >私はいつも、会社や組織の理念や方針などの文章に「若手」という単語が出てきたら、ビクッとします。 >なぜかというと、それは現状がうまくいっておらず、その理由を若手が育っていないからだと、自分たち、つまりこれまで会社などの組織を動かしていた人たちの失敗の原因を転嫁しているという意味が含まれていることがあるからです。 >若手ご本人たちは気づいていないかもしれませんが、年齢差別がなく、若手も中堅もベテランも同じように活躍している組織では、「若手」という上から目線的な単語は出てこないはずです。
そうですね。我が国は序列社会ですから、上は長老、下は若手と呼ばれることになりますね。日本人の礼儀は序列作法ですからね。
>若手に参加してもらい、活躍してもらいたいのであれば、まず先輩たちが若手に憧れられるような存在であるべきです。 >「ここは若手に期待しましょう」ではなくて、まず年齢に関係なくそれぞれができることを最大限やりましょう。 >それでうまく軌道に乗れば、人は自ずと集まるものです。
そうですね。わが国の学者は上手く軌道に乗っている国に移動しましょう。学問には国際性がありますからね。わが国に頭脳流出が起こらないのは人事に流動性が無いからでしょうね。 英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに発達する言語能力を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文章に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。 哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを表す言語である。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。 今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育の賜物である。 当の日本人の若者はいまなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりで持切りである。注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
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