>産経新聞 >西尾幹二氏、日本の危険に警鐘鳴らす「カナリア」誇り奪う自虐史観と戦う >8時間・ >「炭坑のカナリア」という言葉がある。 >炭坑入り行列の先頭で、ガス漏れを知らせるカナリアのように、いち早く危険を知らせるものを指す。 >冷戦期には、戦争などの危険を知らせるカナリアの役割を担うのが、文学者らだという文脈でよく使われていた。 >故人は日本にとっての「カナリア」でなかったか。 >警鐘を鳴らしたのは、日本という国家、あるいは民族を衰弱させ、溶かしてしまうような危険である。 >たとえば、日本を不当に貶める自虐史観である。 >故人が「新しい歴史教科書をつくる会」(平成9年)を立ち上げた当時、中学生向けのすべての教科書に「従軍慰安婦」が掲載され、日本軍が30万人を殺害したという「南京大虐殺」の記述が大手を振るっていた。
それが世界の常識でしょうね。
>こうした自虐史観が、日本人の誇りを奪うものであることは言をまたない。
そうですね。わが国には自虐史観があって贖罪がない。そこに天真爛漫な国民がいる。 マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。
>先の大戦は日本が悪かったという思いは、国防にも悪影響を与える。
大人であって罪のない人間はいない。だから悪びれた顔をするのは異常ではない。人生経験がそうさせるのである。
>歴史教科書の不当な自虐的記述は現在ではずいぶんと減った。 >間違いなく、つくる会の活動の成果である。
歴史教科書に贖罪的記述はない。わが国には贖罪のための宗教もない。天真爛漫として曇りのない大人の人間を誰が信用するであろうか。いまさら子供ではあるまいし。
>安易な「移民」の受け入れにも反対だった。 >80年代、労働力不足解消という目的を隠し、「日本の労働市場を開放し、発展途上国の民生と経済に役立たせる」というヒューマニズムで語られていた移民問題に、いち早く反対の声を上げた。
日本人にはあるべき姿の内容がない。有るのは、口実・言い訳ばかりである。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 無哲学・能天気では、相手の信頼は得られない。信無くば立たず。
>情報収集に熱心で、さまざまな識者を招いての勉強会も病を得るまで続けた。 >そんな姿勢が「カナリア」のような鋭敏さの秘訣だったかもしれない。 >なお、名誉のため、付け加えておきたい。 >「カナリア」のようなか弱さとは無縁で、エネルギッシュな人だった。 >(大阪正論室参与 小島新一)
日本人には意思がない。意思の無い人間には加害者意識がない。罪の意識もない。だから反省の色もない。勉強する余地もない。 在るのは被害者意識ばかりである。だから実に恨めしい社会である。化け物も ‘恨めしや―’ と言って出て来る。これが日本の文化伝統である。 自己の過ちに対する非難には、横並びの比較を利用して対抗する。罪のない人間はいない。だから、’どっちもどっちだ’ ということになって沙汰止みになる。それで安心をする。進歩がない。 我々には哲学が必要である。 (Everyone needs a philosophy.) あるべき姿の内容を示すことが必要である。縦並びの比較をする必要がある。建設的な提案が必要である。我々には進歩が必要である。
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