>現代ビジネス >「判官びいき」に「無常観」…日本人が好む「独特な感情」の「知られざる起源」 >松岡正剛 (編集者) の意見・ >6時間・ >「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。 >日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか? >昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。 >2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。 >※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。 >漂泊者としてのヒルコ=エビス >ネットワーカーのもともとの姿は漂泊者や流民です。 >日本の歴史のなかで漂泊者や流民の動向は大きな役割をもってきた。 >なぜなのか、その話をしておきます。 >またまた日本神話の話に戻りますが、『古事記』にはイザナミとイザナギがまぐわって生まれた子の中には、水子がいたことが記されています。 >その代表格はイザナギとイザナミが最初に産み落としたヒルコ(蛭子・水蛭子)でした。 >二神は手足のないヒルコを葦の舟に入れ、オノゴロ島から海に流してしまいます。 >次に生まれたアワシマ(淡島)も水子でした。 >しかしこのヒルコはやがて流れ着いて、姿も立派な男子に育ったというのです。 >西宮に伝承された話では、夷三郎殿という名で莫大な富をもたらした。 >そこで記念して西宮大明神として祀ったというのです。 >のちにエビス(恵比寿)さまとして崇められ、商売繁盛の神さまになりました。 >今日の西宮神社のルーツです。 >いまでも「商売繁盛、笹もってこい」とエベッさんは大人気です。 >ヒルコはエビス神という富をもたらす神に変化したのです。 >一方、アワシマもめぐりめぐって各地の遊女たちを守る神になった。 >遊女たちが吉原などの遊郭で百太夫や淡島さまとして祀っている神さまがアワシマです。 >これらの話はたいへんに象徴的です。 >漂泊を宿命づけられたマージナルな存在が、まわりまわって賑わいのシンボルへ反転しているのです。 [漂泊: さすらい歩くこと] >文化人類学では、このような反転がおこる話を世界中に流布されてきた「流され王」タイプあるいは「貴種流離譚」タイプと名付けていますが、日本の漂泊文化や辺境文化ではこの手の話はもっと広がりをもっていて、各地にこのような「流転のすえの反転」「漂泊のすえの栄達」がおこりうる物語が伝えられてきました。 >これは「負の刻印」を受けた者のことが忘れられなくなる、放ったらかしにできなくなるという、日本人のやむにやまれぬ気持ちから来ているのではないかと思います。 >この気持ちは人の不幸を憐れみ悼むという感情で、しばしば「無常観」とか「惻隠の情」というふうに呼ばれてきました。[惻隠: いたわしく思うこと] >いくつか例をあげます。 >「判官びいき」と「無常観」 >1つ目の例。 >能舞台は向かって左側に一の松、二の松、三の松をもつ橋掛かりがあって、少し右寄りに松羽目を背景にした本舞台があります。 >本舞台にはシテ柱や目付柱が立ちます。 >これらの前は白洲で、客はそこで見ます。 >橋掛かりの奥は鏡の間になっていて、そこから登場人物がゆっくりあらわれます。 >ワキは直面で素顔のまま、シテは面を付けています。 >どういうシテが登場してきたかは能面の特徴が暗示しています。 >ところが、多くの能で橋掛かりに登場してくるシテの大半は神や死者や亡霊や行方不明な者たちばかりなのです。 >不幸を背負った者たちばかりなのです。 >その者たちの魂は浮かばれない。 >各地をさまよっている。
そうですね。日本人には世界観がない。だから、死者が次の世界に移るという見方がない。そして死者が各地をさまよっている。 これが印欧語族であったなら、死者には地獄か極楽・天国が待っている。死者が各地をさまよう余地が無い。
>そのような過去の境遇にいた者たちがシテに選ばれているのです。 >能は日本の古典芸能を代表するものですが、その舞台と中身は「漂泊の芸」をいかに美しく、いかにきわどくみせるかというものになっているのです。 >2つ目の例。 >日本人は「判官びいき」だとよく言われます。 >この判官とは九郎判官義経のことです。 >幼名は牛若丸ですが、源義朝の九男だったので九郎、左衛門尉になったので判官とも呼ばれた。 >つまりは兄の頼朝に嫌われて東北平泉に落ちのびた義経のことです。
義経は頼朝に自己の名声を妬まれたのですね。
>あんなに平家を討つのに貢献した義経だったのに、追われるように落魄していった。[落魄: 落ちぶれること] >最後は弁慶らとともに討たれます。 >日本人にはそういう義経が不憫でならず、判官びいきが流行したのです。
義経はかわいそうですね。日本人には恨みを晴らす術がない。だから恨めしやー。
>3つ目の例。 >その義経が討った平家の公達たちの物語は『平家物語』として長らく琵琶法師が語ってきました。 >冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 >沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と謡われます。 >つづいて「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 >猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」とある。 >日本人は、この奢れる者は久しく栄えず、すべては春の夜の夢のように諸行無常であること、つまりは万事は風に舞う塵のようなものだという顛末が放っておけないです。
負け惜しみですね。日本人には意思がない。だから塵の様なものになる。
>そんなものは「負け犬根性」だとか「敗北主義」だという声も上がりますが、そうはならない。 >むしろ平家や義経におこったことは、明日の我が身にもおこるかもしれないと感じる。
そうですね。日本人には自己の運命を切り拓く手立てがない。
>諸行は無常だと感じるのです。
意思の無い人間には自然の流れしか見えていませんね。無為無策で座して死を待つばかりです。
>これが「無常観」であり、「惻隠の情」です。 >こうして私たちは平家や義経や能の舞台に流れる漂泊感覚に惹かれてきたのです。
日本人にまっすぐな人生はないですね。
>漱石は『三四郎』のなかで、この感情を「可哀想だた惚れたってことよ」と三四郎に言わせています。 >フーテンの寅さんもずっと負け犬かもしれないのに、それを「負け犬」と言っちゃあ、おしまいだと日本人はどこかではっきり感じているのです。
そうですね。寅さんは、無哲学・能天気ですからね。
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